コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

気多王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

気多王(けたおう/けた の おおきみ、生没年不詳)は、奈良時代皇族。系譜は不明だが、豊野出雲同様に鈴鹿王の系譜に連なるものだとする説がある[1]。名は気太王とも記される[2][3][4]官位従五位上安芸守皇后御葬司

経歴

[編集]

称徳朝天平神護2年(766年)12月、西大寺行幸の際に、清原王梶島王乙訓王とともに无位から従五位下に叙せられる[5]。天平神護3年(767年)、鍛冶正[2]

光仁朝の宝亀2年(771年)、伊勢国に派遣され、斎宮を造っている。この時も鍛冶正[3]。この翌年の11月には酒人内親王が斎王に任命されている[6]宝亀10年(778年)、文室水通の後任の安芸守に任命されている[7]

桓武朝延暦3年(783年)12月、従五位上に進み[4]、同8年(788年)12月、同9年(789年)閏3月にはそれぞれ皇太后高野新笠皇后藤原乙牟漏御葬司の1人となっている[8]

官歴

[編集]

続日本紀』による。

脚注

[編集]
  1. ^ 岩波書店『続日本紀4』補注27 - 四七
  2. ^ a b 『続日本紀』巻第二十八、称徳天皇 天平神護3年5月14日条
  3. ^ a b 『続日本紀』巻第三十一、光仁天皇 宝亀2年11月18日条
  4. ^ a b 『続日本紀』巻第三十八、桓武天皇 今皇帝 延暦3年12月2日条
  5. ^ 『続日本紀』巻第二十七、称徳天皇 天平神護2年12月12日条
  6. ^ 『続日本紀』巻第三十一、光仁天皇 宝亀2年11月13日条
  7. ^ 『続日本紀』巻第三十五、光仁天皇 宝亀10年2月23日条
  8. ^ 『続日本紀』巻第四十、桓武天皇 今皇帝 延暦8年12月29日条・延暦9年閏3月11日条

参考文献

[編集]