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恒松於菟二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
恒松於菟二

恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年明治23年)2月15日[1] - 1970年昭和45年)2月9日[1][注釈 1])は、大正から昭和期の地主[2]、農林業指導者、政治家衆議院議員、島根県会議長。

経歴

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島根県[2][3]安濃郡大田村[1][4]大田町を経て現大田市)で、恒松臺太郎の長男として生まれる[5]。1914年(大正3年[注釈 2]明治大学政治経済科を卒業[1][2][4][5]。1925年(大正14年)家督を相続し[5]農業を営む[3]

1917年(大正6年)大田町農会長、安濃郡会議員に選出され[1][4]、同議長[1]、大田町助役も務めた[3]。1923年(大正12年)島根県会議員に選出され、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで県会議長を務めた[1][3][4]。その他、安濃郡農会長、島根県農会副会長、同会長、自作農創設維持審議会委員、島根県耕地協会代議員、同畜産組合連合会長、同養蚕組合連合会長、同養鶏組合連合会長、帝国農会評議員、中央畜産会理事会副会頭、中央農業会理事、初代島根県農業会長などに在任した[1][2][3][4][5]

実業界では、松江銀行取締役、山陽合同銀行取締役、恒松産業社長などを務めた[3][4][5]。教育界では、島根県教育会副会長、同体育協会理事、同社会教育委員などに在任[1][4]

1925年、社会事業団島根県和敬会会長に就任し1936年(昭和11年)まで在任し、機関誌の発行、講習会・懇談会の開催などにより部落問題の解決に尽力した[4]

1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に島根県第2区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬して当選[1][4][6]。この間、農林省委員、翼賛政治会政調農林委員、文部兼務委員、大政翼賛会島根県支部顧問、翼賛壮年団島根県支部顧問などを務めた[2]

1945年(昭和20年)10月、敗戦の責任を痛感して一切の公職を辞し[1]、衆議院議員も同年12月1日に辞職し[3][7]、同議員に1期在任した[3]。その後、公職追放となった[8]

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』415頁では1月9日。
  2. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』415頁では大正2年。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『島根県大百科事典 下巻』125頁。
  2. ^ a b c d e 『翼賛議員銘鑑』261頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』415頁。
  4. ^ a b c d e f g h i 『島根県歴史人物事典』374-375頁。
  5. ^ a b c d e f 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』ツ43頁。
  6. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』411頁。
  7. ^ 『官報』第5671号、昭和20年12月6日。
  8. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿687頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。
  9. ^ 「恒松隆慶」人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年、つ33-34頁。

参考文献

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  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。
  • 『島根県大百科事典 下巻』山陰中央新報社、1982年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社、1997年。