右田古文
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右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7月19日[1])- 1933年(昭和8年)12月12日[2][3])は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長。
経歴
[編集]石見国那賀郡田野原村[4](島根県[2]那賀郡杵束村[3]、弥栄村を経て現浜田市弥栄町田野原)で、豪農・右田常十郞の長男として生れ、右田古信の養子となった[1]。津和野の福羽美静に師事し漢学を修めた[2][3][4]。1892年(明治25年)6月、家督を相続した[1]。
1874年(明治7年)木束部副戸長に就任[4][2][3]。以後、田野原村会議員、町村浦連合会議員、杵束村会議員、町村組合会議員、田野原区会議員などを務めた[2][3]。1885年(明治18年)島根県会議員に選出され[4]、1894年(明治27年)同議長に就任[2][3][4]。その他、那賀郡会議員、県勧業諮問会員、郡徴兵参事員、所得税調査委員なども務めた[2][3]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(島根県第5区)で当選し[4][5]、その後、第8回総選挙まで2回再選され、衆議院議員に通算3期在任した[2][3]。
実業界では、産紙会社取締役、山陰貯蓄銀行取締役、島根県農工銀行取締役、矢上銀行取締役、浜田銀行監査役、山陰生命保険会社監査役、境通商銀行監査役などを務めた[1][2][3][4]。
国政選挙歴
[編集]- 第5回衆議院議員総選挙(島根県第5区、1898年3月、准進歩党)当選[5]
- 第6回衆議院議員総選挙(島根県第5区、1898年8月、憲政本党)次点落選[5]
- 第7回衆議院議員総選挙(島根県郡部、1902年8月、憲政本党)当選[6]
- 第8回衆議院議員総選挙(島根県郡部、1903年3月、憲政本党)当選[6]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社、1997年。