湯殿山神社 (西川町本道寺)
湯殿山神社 | |
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所在地 | 山形県西村山郡西川町本道寺大黒森381 |
位置 | 北緯38度27分11.5秒 東経140度3分26.8秒 / 北緯38.453194度 東経140.057444度座標: 北緯38度27分11.5秒 東経140度3分26.8秒 / 北緯38.453194度 東経140.057444度 |
主祭神 |
大山祇神 大己貴命 少彦名命 |
社格等 | 旧無格社 |
創建 | 伝大同4年(809年) |
本殿の様式 | 流造 |
別名 | 口ノ宮湯殿山神社 |
例祭 | 9月8日 |
地図 |
湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)は、山形県西村山郡西川町本道寺にある神社である。もとは本道寺という真言宗寺院であり、全国のほかの湯殿山神社と区別するため、口ノ宮湯殿山神社とも呼ばれている。旧社格では無格社。
祭神
[編集]湯殿山の祭神である大山祇神・大己貴命・少彦名命の3神である。月読命(月山の祭神)・伊弖波神(羽黒山の祭神)を配祀する。
歴史
[編集]明治初頭までは、神仏習合の修験道(羽黒派修験)の山、出羽三山湯殿山派の別当寺4か寺の1寺である月光山本道寺であった[1]。
神社の由来によると、本道寺は、大同4年(809年)に、湯殿山に参拝した空海によって開基された。空海は、この地にて霧の中で光る老木から大日如来と大黒天2体の仏像を造り、庵に安置したと言う。この地を旅立つ際、空海は従僧の一人に対し、「ここは、湯殿山大権現へと通ずる本道である。汝は私の代わりにここを守り、湯殿山への日月の代参を行うべし。さすれば大権現の霊験が世に現われるだろう」と言い残したという。当初は、2体の仏像が安置された庵を「月光山光明院」と称した。
その後、天長3年(827年)に湯殿山大権現を勧請して伽藍が造られ、これ以降月光山本道寺と称し、湯殿山4か寺となった。本道寺は、空海の遺訓もあって、4か寺の正別当として湯殿山の中心的な別当寺となった。
本道寺は歴代の領主にも崇敬された。古くは大江氏の流れを汲む寒河江氏、ついで最上氏の崇敬を受けた。江戸時代には、梁間18間、桁68間という東北一の大伽藍を誇り、湯殿山として徳川氏の七祈願所の一つ、勅許による勅願寺にもなっていた。「出羽三山参拝の本道」とされたため、本道寺を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は、「(参拝のピークである)夏の稼ぎだけで遊んで暮らせた」ほどの繁栄を誇った。
明治元年(1868年)、本道寺の周辺は、戊辰戦争の戦場となった。天童藩を陥落させた後、この地に進出した薩摩藩、尾張藩を中心とし、恭順した東北諸藩を従えた新政府軍と、庄内藩、桑名藩による旧幕府軍との間で戦闘が行われた。旧幕府軍の敗走後、本道寺は、将軍家の祈願所であったために、新政府軍の攻撃を受け、大伽藍を焼き払われてしまう。(入間森畑の戦い)
さらに、明治7年(1874年)に神仏分離令が発せされると、本道寺は寺号を廃して口ノ宮湯殿山神社となった。戊辰戦争の際に焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890年)に拝殿や本殿として再建されたが、その規模は、往時に比べて大きく縮小された。
1877年(明治10年)、山形県初代県令三島通庸により、口ノ宮湯殿山神社から分霊され、県庁守護として山形市旅篭町に県社湯殿山神社が建立された。旧県会議事堂(文翔館)裏に現存する湯殿山神社は、これに由来する。
なお、神仏分離に際し、戦災を免れた本道寺の寺宝は、出羽三山から分離した大日坊、注連寺の2寺を始め、縁のある諸寺院に引き取られたが、その後、散逸してしまったものが多い。例えば、本道寺の仁王像は、河北町にあった弥勒院(みろくいん)に引き取られていたが、1905年(明治38年)に仙台駅前にある仙台ホテルが建て替えした際、弥勒院が同ホテルに売却した[2]。2005年(平成17年)に仙台ホテルの所有者・運営者が替わり、全面改装することになったため、同年11月15日に口ノ宮湯殿山神社に寄贈され[2]、現在は拝殿に安置されている。その他、1989年(平成元年)に空海坐像を栃木県内の古美術商から買い戻している。
境内
[編集]- 鳥居
- 山門(「湯殿山」額が有名。瑞鳳寺の高僧であった南山の揮毫)
- 拝殿
- 本殿
- 石仏
- 仏足石(日本国内に現存する3尊のうちの1尊)
- 十二面山神・地蔵尊(境内にあり、神仏習合の歴史を偲ばせる)
- 八日塔碑、太神宮碑、金比羅大権現碑、百万遍供養塔、湯殿山供養塔等