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物部麻奇牟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

物部麻奇牟(もののべ の まかむ)は、6世紀中頃(朝鮮の三国時代/日本の古墳時代後期)の倭系百済官僚物部莫奇武連とも記され、百済人でありながらの姓を有したことがわかる。官位は施徳(百済の官位十六品の第8位)、のち東方領[1]

概要

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日本書紀』欽明4年9月条によれば、543年聖明王によって倭に遣わされ、扶南の財物を献上したという。

『日本書紀』欽明15年12月条によれば、554年に、新羅が海の北の弥移居(屯倉=直轄領)を滅ぼそうとしたため、聖明王は12月9日に麻奇牟を派遣して、函山城を攻めて、倭の有至臣(ウチツオミ)と共に占領したという。

鄭僑源は、「今日に於ては、内鮮人間の氏名などが、著しく相違するので、まるで血族的交渉がない様に見えるが、決して左にあらず。中古以前は姓名も両者殆んど同一であったのである。例へば蘇我馬子が日本最初の寺院として建立した法興寺の工事のために百済から呼んだ工匠、即ち太良未太文賈古子の姓名の如き、又瓦工の麻奈文奴とか聖明王時代日本に使せる紀臣奈率弥麻沙、物部施徳麻奇牟、河内部阿斯比多の如き、又百済滅亡の時の将軍鬼室福信の如き、何れも今の朝鮮式の姓名とは凡て異り、むしろ日本的であるといふことができるのである」と述べている[2]

出自

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物部用歌多物部哥非物部烏と共に、物部伊勢父根の子であるとする説が存在する[3]

勿部将軍功徳記』に登場する百済勿部珣を「物部珣」とし、物部氏の末裔とする説が有力である(倭の物部氏の末裔とも、倭系百済官僚の末裔とも)[4][5][6]

考証

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当時の全羅道への百済の領土拡大政策の進展と、倭国への直接的な救兵が必ずしも順調でなかった情況を考えれば、倭系豪族の全羅道への配置(加耶からの入植を含む)と、百済の軍事・行政体制への彼らの編入(方 - 郡 - 城(県)体制における方領 - 郡令 - 城主への任命、「東方領」物部莫奇武連はその典型)はセットで構想されていたと考えられる[1]

脚注

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  1. ^ a b 仁藤敦史倭・百済間の人的交通と外交 : 倭人の移住と倭系百済官僚 (第1部 総論)」『国立歴史民俗博物館研究報告』第217巻、国立歴史民俗博物館、2019年9月、29-45頁、CRID 1050569070642607232ISSN 0286-7400 
  2. ^ 鄭僑源『内鮮一体の倫理的意義』朝鮮総督府〈朝鮮 293〉、1939年10月、35頁。 
  3. ^ 河内春人「古代東アジアにおける政治的流動性と人流」『専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報』第3巻、専修大学社会知性開発研究センター、2017年3月、113頁、CRID 1390572174779544704doi:10.34360/00008258 
  4. ^ “순장군공덕기(珣將軍功德記)”. 聯合ニュース. (2006年11月17日). オリジナルの2022年2月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220209061550/https://www.yna.co.kr/view/PYH20061117010700999 
  5. ^ “순장군 공덕기 (珣將軍 功德記)”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年10月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221019134040/https://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&totalCount=1&itemId=gskh&synonym=off&chinessChar=on&page=1&pre_page=1&brokerPagingInfo=&types=&searchSubjectClass=&position=0&levelId=gskh_008_0020_0010_0030 
  6. ^ 李成市「天龍山勿部珣功徳記にみる東アジアにおける人の移動」『仏教文明と世俗秩序』(勉誠出版、2015年)