綾小路絃三郎
あやのこうじ げんざぶろう 綾小路 絃三郎 | |
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本名 | 渡辺 武雄 わたなべ たけお |
別名義 |
浅香 麗三郎 あさか れいざぶろう 燕 東三郎 つばめ とうざぶろう 松永 博 まつなが ひろし |
生年月日 | 1911年2月26日 |
没年月日 | 1988年10月26日(77歳没) |
出生地 | 日本 大阪府 |
死没地 | 日本 |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 劇映画(時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1931年 - 1961年 |
活動内容 |
1931年 右太プロ入社 1933年 河合映画移籍 1934年 エトナ映画社移籍 1935年 極東映画移籍 1941年 極東映画消滅 1941年 松竹下加茂撮影所へ 1961年 テレビ映画出演 |
綾小路 絃三郎(あやのこうじ げんざぶろう、1911年2月26日[1] - 1988年10月26日)は、日本の俳優である。「綾野小路」[2]は誤り。極東キネマでは、雲井龍之介、市川寿三郎とともに「極東の三羽烏」と呼ばれた剣戟俳優である[1]。初期に浅香 麗三郎(あさか れいざぶろう)、燕 東三郎(つばめ とうざぶろう)と名乗り[1][2]、第二次世界大戦中の一時期に松永 博(まつなが ひろし)と名乗った[3]。本名は渡辺 武雄(わたなべ たけお)。
人物・来歴
[編集]1911年(明治44年)2月26日、大阪府に「渡辺武雄」として生まれる[1]。
市川右太衛門の市川右太衛門プロダクションに入社[1]、「浅香麗三郎」の名で1931年(昭和6年)、神田金太郎監督、武井龍三主演の『血煙一番槍』に出演[2]、同年、古野英治・白井戦太郎監督、女剣劇の大江美智子主演の『悲願四目菱』で徳川吉宗役に抜擢された[1][2]。
1933年(昭和8年)、河合映画製作社に移籍[1]、「燕東三郎」と改名[1]、根岸東一郎監督の『大丈夫の松五郎』で初主演を果たす[1][2]。同年、河合映画が大都映画に改組され、海江田譲二プロダクション製作、大都映画配給の『江戸剣飛脚』を含めた4本の大都作品に出演後、翌1934年(昭和9年)に京都に設立されたエトナ映画社に移籍した。「綾小路絃三郎」と改名し、同年、後藤岱山監督の『鬼伏せ頭巾』に主演した[1]。同社で4作に主演した後、1935年(昭和10年)に極東映画の設立に参加した[2]。
極東映画が甲陽撮影所から大阪郊外に移転したとき、羅門光三郎、市川寿三郎らとともに同撮影所に残留し、甲陽映画に参加[1]、3本に出演したが、同年中には極東映画に戻った[2]。
極東映画、改称して極東キネマでは、73本に出演した[2]。1941年(昭和16年)、山口哲平監督の『初上り長七郎駕籠』に主演した[2]が、同年合併により極東キネマは消滅した。同年、松竹下加茂撮影所に移り、「松永博」の名で、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』等に出演した。
第二次世界大戦後、1961年(昭和36年)に製作・放映されたテレビ映画『新吾二十番勝負』に出演している[4]。
1988年(昭和63年)10月26日、死去した。満77歳没。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 『血煙一番槍』 : 監督神田金太郎、1931年
- 『悲願四目菱』 : 監督古野英治・白井戦太郎、1931年
- 『大丈夫の松五郎』 : 監督根岸東一郎、1933年
- 『鬼伏せ頭巾』 : 監督後藤岱山、1934年
- 『月形半平太』 : 監督仁科熊彦、1935年
- 『新月赤城街道』 : 監督稲葉蛟児、1935年
- 『妖霊お万狐』 : 監督大江秀夫、1937年
- 『黎明稲妻峠』 : 監督大江秀夫、1938年
- 『初上り長七郎駕籠』 : 監督山口哲平、1941年
- 『元禄忠臣蔵』 The 47 Ronin : 監督溝口健二、1942年 ⇒ 元禄忠臣蔵
- 『新吾二十番勝負』 : テレビ映画、1961年
註
[編集]参考文献
[編集]- 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年発行