コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

熊ノ平駅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
熊ノ平信号場から転送)
熊ノ平駅*
明治・大正期の熊ノ平駅
給水塔中線(通過線)第三軌条蒸機電機が併用されていた様子などがわかる。
くまのたいら
Kumanotaira
横川 (6.1 km)
(5.1 km) 軽井沢
地図
所在地 群馬県碓氷郡松井田町大字坂本(現安中市松井田町坂本
北緯36度21分19.8秒 東経138度41分4.9秒 / 北緯36.355500度 東経138.684694度 / 36.355500; 138.684694座標: 北緯36度21分19.8秒 東経138度41分4.9秒 / 北緯36.355500度 東経138.684694度 / 36.355500; 138.684694
所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 信越本線
キロ程 35.8 km(高崎起点)
電報略号 クタ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1893年明治26年)4月1日
廃止年月日 1997年平成9年)10月1日**
* 1906年(明治39年)に信号場から駅になり、1966年昭和41年)に再度信号場となる。
** 北陸新幹線先行開業にともなう横川 - 軽井沢間の路線廃止による
テンプレートを表示

熊ノ平駅(くまのたいらえき)は、かつて群馬県碓氷郡松井田町大字坂本(現安中市松井田町坂本)に存在した、日本国有鉄道(国鉄)信越本線である。

歴史

[編集]

駅構造

[編集]

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。大正時代には上下線の間に中線が敷設されたが(写真参照)、第二次世界大戦後に撤去されている。

信号場降格時にホームは使用停止となるが、現在もなお残置されている。トンネルに挟まれ有効長を十分に確保できないため、アプト式鉄道時代の列車は突込線によっていったんトンネルに入ってから本線脇の押下線に後退して停車する、一種のスイッチバック駅だった。粘着化以降は複線となったため列車交換は無くなり、閉塞境界(信号場)としての機能だった。

碓氷峠に挑むこの区間はアプト式で建設されたが、停車場内は平坦(レベル)で、ラックレールも設置されていない。上の写真に見られるように、電化方式は第三軌条方式であった。

構内にある熊ノ平変電所1937年(昭和12年)に設置され、1962年(昭和37年)の粘着式への転換時に改修を受け、横川 - 軽井沢間の廃線まで使用された。その後2018年(平成30年)8月17日に重要文化財に指定されている。

力餅

[編集]

駅として営業していた当時は、玉屋が力餅を販売していた。信号場へ降格後は坂本宿の方へ店を移し、「玉屋ドライブイン」として現在も営業している[4]

事故・災害

[編集]

構内列車脱線事故(1918年)

[編集]
1918年(大正7年)3月7日に発生した熊ノ平駅列車脱線事故現場の様子

1918年(大正7年)3月7日、横川から軽井沢方向に登っていた貨第191列車(10000形電気機関車2両+貨車10両+有蓋緩急車1両)の本務機関士が、第20号トンネル通過中に異臭・異音を感じ緊急停車した。故障は軽微であったことから運行継続を決断し、再発車しようとしたが起動せず、碓氷峠の急勾配を退行し始めた。機関士は制動を試みたが発電ブレーキが故障して効かず、10箇所のトンネルを通過暴走して熊ノ平駅の引込線に突っ込み、第10号トンネル終点側出口壁に衝突した。列車は転覆して大破、これにより歯車緩急車の運転助士、前部車掌の乗務員2名、熊ノ平駅転轍手1名の計3名が即死、本務機機関士1名が重傷後死亡で計4名が犠牲となり、その他4名が負傷した。

列車の牽引機であった10000形電気機関車はドイツ国から輸入した日本国内における黎明期の電気機関車であり、当時から故障が頻発していた中での惨事だった。

大規模崩落事故(1950年)

[編集]

1950年(昭和25年)6月は碓氷峠周辺で降雨が続き、上旬だけで軽井沢測候所で150ミリメートルもの雨量が観測された。そのような中、6月8日の午後8時半頃に熊ノ平駅構内の第10号トンネル北側で約3,000立方メートルの土砂が崩壊して本線・突込線が埋没した。

この時点で人的被害はなく、作業員を160人による復旧作業が開始された[5]。しかしながら含水量が多いことなどから作業が難航した上、翌6月9日午前6時6分頃にその上方で7,000立方メートルほどの崩落が発生。 駅舎と鉄道公舎8棟が倒壊、駅長を含む関係者約80人が生き埋めとなった。最終的に死者56人、重傷24人[6]

その後、手作業での救出作業が行なわれたが、6月11日午後11時半頃に3回目、6月12日午前7時24分に4回目の崩落がそれぞれ起きた。線路は延長70メートルにわたって幅60メートル、深さ2メートルの土砂が堆積した。6月22日までに駅長を始めとした遺体はすべてが回収され、信越本線は6月20日に開通、6月23日に完全復旧した。

同年には飯田線でもトンネル崩落が起きており、国鉄がローカル線の保守を軽視しているという意見も出た。一周忌にあたる1951年(昭和26年)6月9日におよび同職員寄付で「熊ノ平殉難碑」が建立された。

土砂崩れ(2024年)

[編集]

駅周辺

[編集]

信号場に降格後50年以上も経っているが、国道18号(旧道)から当駅へ続く階段の遺跡は一部健在である。草生した夏場では解りづらいが、草が枯れる秋から春までは確認できる。

隣の駅

[編集]
日本国有鉄道
信越本線
横川駅 - (丸山信号場)- 熊ノ平駅 - (矢ヶ崎信号場) - 軽井沢駅

※丸山信号場、矢ヶ崎信号場は1966年(昭和41年)7月2日に廃止

現在のアクセス

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 舗装された旧下り突込線トンネルの出口には「熊ノ平」バス停もあるが、トンネル内は立ち入り禁止となっているので「熊ノ平駐車場」バス停の方が近い。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e 石野哲(編)『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』(初版)JTB、1998年10月1日、574頁。ISBN 978-4-533-02980-6 
  2. ^ 2018年(平成30年)8月17日文部科学省告示第167号
  3. ^ 旧碓氷峠鉄道施設 熊ノ平変電所本屋 きゅううすいとうげてつどうしせつ くまのだいらへんでんしょほんや”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年9月10日閲覧。
  4. ^ 玉屋ドライブイン創業250余年の歴史 - 玉屋ドライブイン。2024年10月4日閲覧。
  5. ^ 「七十二名が生埋」『日本経済新聞』昭和25年6月10日 3面
  6. ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、77頁。ISBN 9784816922749 

参考文献

[編集]
  • 宮沢清治「災害史シリーズ 気象災害史 (72) 鉄道廃線跡の殉難碑 昭和25年6月 碓氷峠の熊ノ平駅の土砂崩れ」『近代消防』、35巻13号、P.86-89、1997年

関連項目

[編集]
  • 日本の鉄道駅一覧
  • 廃駅
  • 峠駅 - 鉄道の難所にある点、スイッチバックがあった点で共通しており、こちらは現在も駅で力餅を販売している。
  • 湯田中駅 - 2006年8月31日まで駅停車時に類似する入線方法を行っていた。