コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

焦礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

焦 礼(しょう れい、1382年5月5日 - 1463年1月14日)は、明代軍人は尚節。モンゴルの出身。

生涯

[編集]

把思台と伯特氏のあいだの子として生まれた。把思台は洪武年間に明に帰順し、通州衛指揮僉事となった。把思台の死後はその子の焦勝が嗣ぎ、その後を焦義栄が嗣いだが、子がなく、焦勝の弟の焦謙が嗣ぎ、功績を重ねて都指揮同知に進んだ。焦謙の死後、子の焦管失奴が幼かったため、焦謙の弟の焦礼が指揮僉事の職を嗣ぎ、遼東の守備にあたった。

宣徳初年、焦礼は焦管失奴に嗣職を返すべきところ、宣徳帝は焦礼の辺境守備の功労を思って、もとのまま職にとどまるよう命じ、別に焦管失奴を指揮使に任じた。焦礼はほどなく功労により都指揮同知に累進した。1441年正統6年)11月、都指揮使となった。1443年(正統8年)3月、寧遠を守備した[1]1445年(正統10年)7月、左軍都督僉事となった。1447年(正統12年)春、総兵の曹義や参将の胡源らとともに東辺を分巡した。ウリヤンハイ三衛が侵入すると、焦礼らはこれを討った[2]。4月、焦礼は都督同知となった[3]1449年(正統14年)4月、右都督に進んだ[4]。8月、英宗土木の変オイラト軍に捕らえられると、焦礼は景泰帝の命により左副総兵となり、寧遠を守った。10月、エセン・ハーン北京に迫ると、焦礼は軍を率いて北京城に入り、守備した。オイラト軍が撤退すると、焦礼は寧遠に帰った。1453年(景泰4年)11月、北方遊牧民の2000騎あまりが遼東の興水堡を侵犯すると、焦礼はこれを撃退した。左都督に進んだ[5]

1457年天順元年)1月、英宗が復辟すると、焦礼は辺境守備に功績があったとして、北京に召し出されて入朝した。2月、東寧伯に封じられ、爵位の世襲を許された。寧遠に帰った。兵部は焦礼が80歳に近かったことから、単独で任にあてるのは不適切だとして、都指揮の鄧鐸を派遣して協同で守備させるよう上奏した。焦礼は鄧鐸に人を欺き侮る傾向があるとして、別の人物と交代させるよう要請した。英宗は鄧鐸に代えて都指揮の張俊を派遣するよう命じた。1463年(天順7年)1月、焦礼は寧遠で死去した。享年は82。東寧侯の位を追贈された。は襄毅といった。

孫の焦寿が爵位を嗣いだ。

脚注

[編集]
  1. ^ 談遷国榷』巻25
  2. ^ 明史』外国伝九
  3. ^ 『国榷』巻26
  4. ^ 『国榷』巻27
  5. ^ 『国榷』巻31

参考文献

[編集]
  • 『明史』巻156 列伝第44
  • 奉天翊衛宣力武臣特進栄禄大夫柱国東寧伯追封東寧侯諡襄毅焦公神道碑銘(李賢『古穣集』巻11所収)