瀬下清
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瀬下 清(せじも きよし、1874年9月18日 - 1938年9月24日)は日本の銀行家。三菱銀行元会長。
来歴
[編集]長野県佐久郡三塚村(現佐久市)に代々庄屋を務めた豪農の瀬下七兵衛[1]の三男として生まれ、親族の瀬下起十の養子となる。6歳で上京し、東京英語学校、大手町商業予備門に学び、明治26年(1893年)東京高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校卒業[2]。第百九国立銀行に入行し、同28年(1895年)三菱合資会社銀行部に移る。同神戸支店長時代には灘の酒造メーカー「桜政宗」に破格の融資を行って立ち直らせた。また勧業銀行による森永製菓の救済も仲介した。2年間イギリスに留学し、大正8年(1919年)三菱合資会社銀行部が三菱銀行として分離独立すると、常務取締役に昇格した。昭和6年(1931年)、世界恐慌の影響により、長野県の信濃銀行が整理されたのを受け、六十三銀行と第十九銀行の合併を仲介し、現在の八十二銀行を発足させ、「信州財界の救世主」と称された[3]。また郷里の旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)に化学実験室を、菩提寺の貞祥寺に図書室を寄贈した。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 瀬下家の家紋は抱き沢瀉紋
- ^ 『人事興信録』第8版 人事興信所、1928年
- ^ 佐久の先人たち 瀬下清
- ^ 瀨下清 (男性)人事興信録データベース第8版 [昭和3(1928)年7月](名古屋大学大学院法学研究科)
参考文献
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