瀧川家住宅
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瀧川家住宅 | |
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情報 | |
構造形式 | 木造、瓦葺[1] |
建築面積 | 125 m² [1] |
階数 | 平屋建[1] |
所在地 | 愛知県新城市出沢字中ケ谷4 |
座標 | 北緯34度56分27.8秒 東経137度32分17.5秒 / 北緯34.941056度 東経137.538194度座標: 北緯34度56分27.8秒 東経137度32分17.5秒 / 北緯34.941056度 東経137.538194度 |
文化財 | 登録有形文化財 |
指定・登録等日 | 2005年2月9日[1] |
瀧川家住宅(たきがわけじゅうたく)は、愛知県新城市出沢字中ケ谷4にある邸宅。
瀧川家は代官を務めた家であり、旗本の設楽氏の陣屋を移築して主屋としている[2]。主屋・長屋門・祠が登録有形文化財。同じ出沢(すざわ)集落には登録有形文化財として龍泉寺の5件や八平神社の2件もある。
歴史
[編集]鎌倉時代末期の延慶年間(1308年~1311年)、現在の出沢集落を含む地域は瀧川郷と呼ばれていた[2]。
戦国時代の天正3年(1575年)に織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠の戦いでは、瀧川助義(瀧川源左衛門)が笠井満秀と一騎打ちを行い、相打ちとなって戦死したとされる[3]。天正13年(1585年)には瀧川郷が5か村に分割され、この際に出沢村ができたとされる[2]。
延宝年間(1673年~1681年)、瀧川家は設楽家から大名主に任じられた[2]。元禄11年(1698年)には設楽家三河領の代官に任じられ、明治維新まで代官を世襲した[2]。文化11年(1814年)には瀧川一清が竹廣陣屋を建てた[2]。明治維新期の1869年(明治2年)、竹廣陣屋を現在地に移築して瀧川家の主屋とした[2]。
太平洋戦争後の1952年(昭和27年)には主屋が茅葺から桟瓦葺に改められた[2]。1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風では建物の一部に被害が出たために修理を行った[2]。
文化財
[編集]市指定文化財
[編集]- 亦谷中世墓地
- 瀧川家の墓地。長篠の戦いで戦死した瀧川助義(瀧川源左衛門)の墓などがある。1978年(昭和53年)11月22日、新城市指定文化財(史跡)に指定された。
登録有形文化財
[編集]- 主屋
- 長屋門
- 祠
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 滝川一美『滝川家伝記』滝川一美、1983年