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漆間民夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6月16日[1][2])- 1926年大正15年)7月26日[1][3][4])は、明治から大正期の酒造家、実業家政治家衆議院議員。幼名・守太郎[1]。号・履堂、千畝[1]。生地銀行創立者。

経歴

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越中国新川郡生地村[1]石川県新川郡生地村、下新川郡生地村、富山県[3]下新川郡生地村、生地町[5]を経て現黒部市[1]生地)で、素封家、酒造業・漆間次郎右衛門の長男として生まれた[1]。1877年(明治10年)岡田呉陽の塾に入門[1][5]。1883年(明治16年)上京して明治義塾で学び[1][3][4][5]馬場辰猪から薫陶を受けた[1][5]

島田孝之田村惟昌らと自由民権運動に尽力[1][5]。富山県奨学委員[1]、生地村外4ケ村奨学委員[3][4]、富山県免囚保護会評議員[3][4]を務めた。1889年(明治22年)『中越新聞』の譲渡を受け田村惟昌と富山日報社を設立した(現北日本新聞[1][3][4]

1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(富山県第2区、無所属)で当選し[1][6]、衆議院議員に1期在任した[3][4]立憲改進党幹事を務め[1]、その後、進歩党に所属した[1]

1900年(明治33年)生地尋常高等小学校に奨学金本金千円を寄付した[1]。同年、生地銀行を設立して取締役頭取に就任[1][5](当行は1919年に高岡銀行に吸収後、北陸銀行になった)。また地元漁業者の安全のため生地鼻灯台建設に多額の寄付を行った[1][5]

1908年(明治41年)静岡県駿東郡楊原村(現沼津市)に移住[1]。同村会議員、静岡県社会事業協会理事などを務めた[3][4]

家族

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著作

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  • 『履堂遺稿』漆間唯一、1930年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『富山大百科事典 上巻』200頁。
  2. ^ 『人事興信録 第4版』う32-33頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』98頁。
  4. ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』75頁。
  5. ^ a b c d e f g 『富山県姓氏家系大辞典』237頁。
  6. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』100頁。
  7. ^ a b c 漆間民夫 『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  8. ^ 野崎吉郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  9. ^ 愛本銀行銀行変遷史、全国銀行協会
  10. ^ 『警視庁史 大正編』警視庁史編さん委員会、1959 p532
  11. ^ 山田憲コトバンク
  12. ^ 「彼のごときは速やかに葬らなければならない」“資産15億4000万の男”をバラバラにしたエリート官僚の“義憤”小池 新、文春オンライン、2022/06/12
  13. ^ 『日本百年の記録』下巻、木下宗一、1960、新人物往来社
  14. ^ 『丹羽保次郎: 人と業績』丹羽記念会, 1978 p97

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 竹内理三ほか編纂『富山県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典16、角川書店、1992年。
  • 『富山大百科事典 上巻』北日本新聞社、1994年。