滝川平利
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄元年(1688年) |
死没 | 享保8年9月16日(1723年10月14日) |
別名 | 通称:民部、三郎四郎 |
戒名 | 義光 |
墓所 | 下谷広徳寺塔頭桂徳院 |
幕府 | 江戸幕府 書院番 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、家継、吉宗 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 父:滝川具章 |
兄弟 | 利忠、平利、稲生正武室、邦房、安藤信賁室、具英 |
妻 | 正室:滝川元長の娘 |
子 | 養子:具英 |
滝川 平利(たきがわ ひらとし)は、江戸時代中期の旗本。通称は民部、三郎四郎。
生涯
[編集]元禄元年(1688年)、旗本寄合席の滝川具章の次男として生まれた。母は某氏で、父が40代半ばで生まれた子である[1]。
元禄9年(1696年)3月、父が京都町奉行に任命されて京都に赴任することになり、暇乞いのために登城した父に従って初めて徳川綱吉に御目見した[2]。このとき、まだ9歳であった。
元禄14年(1701年)、長兄の滝川数馬利忠が死去し、父の嫡男となった[1]。
正徳2年(1712年)、父が死去し、跡目を許された。このとき、父の生前の願い出により遺領1500石のうち300石は弟の邦房に分与され、近江国内1200石を相続した[3]。
享保4年(1719年)、32歳で書院番に番入りするが、同8年(1723年)に死去した。享年36[1]。
妻の滝川元長(同姓であるが滝川忠征の玄孫で別系統)娘との間に子がなく、末弟の滝川具英が跡を継いだ[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書, 1923, p. 427.
- ^ 「常憲院伝御実紀」巻33. 元禄9年3月28日条(『徳川実紀. 第四編』経済雑誌社, 1904, p. 524.)
- ^ 「有昭院伝御実紀」巻1. 正徳2年12月27日条(『徳川実紀. 第五編』経済雑誌社, 1904, p. 286.)