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溝部洋六

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溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年明治14年)6月27日 - 1919年大正8年)11月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍大佐大分市出身。

略歴

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溝部竹太郎(三男、四女)の長男として、府内城下中上市町(現大分市中央町)に生まれる。1894年(明治27年)大分県尋常中学校入学。四年の課程を終え、五年次の8月に海軍兵学校を受験し合格。入校時成績順位は137名中第5位。1898年(明治31年)12月海軍兵学校入校(第29期)。卒業時成績順位は125名中第1位(首席、望遠鏡を下賜さる)。1913年(大正2年)海軍大学校甲種13期)に入校し首席卒業、恩賜長剣を拝受する。

人物像

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資性闊達にして明敏[1]、帝国海軍きっての逸材であり将来は将官と期待されたが[2]、戦艦伊勢にて大演習中に病に罹り、38歳の働き盛りで病没。同期には品川一郎(優等卒業、黄海海戦において戦死。三笠に「勇士戦死のところ」の銘版あり)、米内光政佐久間勉らがいる。

同郷堀悌吉中将(海兵32期首席卒業)については、その父親は悌吉が医者に成る事を希望していたり、中学の教員も合格を危惧していたが、とにかく洋六の例を話して海軍兵学校を受験したという[3]

自らの遠洋航海が終了した翌年、30期生の遠洋航海に候補生指導官として厳島乗船。また明治37年12月20日、32期堀悌吉以下191名(少尉候補生)の振天府拝観の付添いを命じられる等[4]、指導力もあり後輩から人望のある性格であった。兵学校時代の明治32、33年の両度にわたり品行善良章を受ける。

中学時代は「高山彦九郎」を以って自ら任じていた事や「海へ」等の著書を出版している事などから海大卒業後は、海国思想の啓発者、普及家への道を目指していた。また軍人には似合わず全く酒を嗜まなかった。

竹田市広瀬神社に納められている広瀬中佐佩用の長剣は、嘗て軍神広瀬の精神をつぐものとして、広瀬家より溝部に譲与された。しかし溝部の没後は溝部家より同神社に奉納された。

年譜

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  • 1901年(明治34年)12月10日-海軍兵学校卒業 卒業成績順位125名中第1位。
    • 12月14日-任少尉候補生。
  • 1902年(明治35年)2月-3等海防艦比叡乗組。練習艦隊(比叡、金剛)遠洋航海出発 横須賀~マニラ~木曜島~タウンズビル~メルボルン~ホバート~オークランド~スバ~釜山~馬山浦~横須賀
    • 8月25日-帰着
  • 1903年(明治36年)1月23日-任海軍少尉。「厳島(艦長松本和、副長佐藤鉄太郎)」に30期生の遠洋航海の指導官として乗組み。
    • 2月-南洋諸島、豪州及び清韓諸港に向け巡航開始。
    • 8月-横須賀帰着。
    • 11月-「富士(艦長松本和)」乗組を命じられる。
  • 1904年(明治37年)2月6日-佐世保発艦[5]
    • 2月9日-旅順口の敵艦砲撃(初の実戦を体験 砲術長山中少佐戦死)。
    • 2月17日-富士乗組松原少尉らと海洋島を偵察。
    • 7月13日-任海軍中尉。
    • 8月10日-黄海海戦(「富士」被弾・死傷なし)。
    • 10月29日-「韓崎丸」乗組を命じられる。11月12日 -韓崎丸江田島に回航。堀悌吉ら海兵卒業の32期生を同船に収容し指導にあたる。
  • 1905年(明治38年)1月12日-吾妻分隊長心得[6]を命じられる。1月21日-青森にて乗艦。
    • 2月-津軽海峡方面を警備。13日、浦塩から函館に入港した独商船を取り調べる。
    • 5月27日-日本海海戦時は前部八伊砲塔を指揮(「吾妻」被弾十余個 戦死下士卒10名 負傷副長東郷中佐他30名)。
    • 8月-「吾妻」樺太攻略作戦を支援。
    • 8月5日-任海軍大尉。「吾妻」分隊長を命じられる。
    • 8月18日-「吾妻」の陸戦隊を率いてチラケベオッソ(日本名知良)に上陸、当地よりチラケベオッソ岬(恵須取郡 日本名知来岬、海軍呼称名須磨岬)の望楼建設予定地までの沿岸を踏査し、異状なしを確認。
    • 12月-海軍砲術練習所学生。
  • 1906年(明治39年)6月-砲術練習所首席卒業。成績優等にて銀時計を賜る。その後「朝日」,「鹿島」,「呉海兵団」分隊長を命じられる。
  • 1908年(明治41年)-4月「高千穂」砲術長兼分隊長[7]。9月病気のため休職、郷里の別府温泉にて療養。この間、四国八十八ヶ所を巡礼し、明治45年3月結願。
  • 1911年(明治44年)-6月 復職。「出雲」分隊長を命じられる。
  • 1912年(明治45年)-「沖島」分隊長兼佐世保海兵団分隊長を命じられる。
    • 7月29日-佐々木チヨ嬢[8]と結婚。
  • 1912年(大正元年)-任海軍少佐。命薩摩分隊長、続いて佐世保鎮守府軍法会議判士長に補せらる。
  • 1913年(大正2年)12月-海軍大学校に入校。
  • 1914年(大正3年)-「別府発展」に関する提言[9]
  • 1915年(大正4年)12月-海軍大学校(甲種13期)を首席卒業、卒業成績順位17名中第1位。卒業とともに「比叡」(艦長加藤寛治大佐)の砲術長を命じられる。
  • 1916年(大正5年)-9月軍令部出仕。臨時海軍軍事調査会(委員長山屋他人中将)に関わる。
  • 1917年(大正6年)4月-任海軍中佐。
    • 6月-兵資調査会委員(委員長栃内曽次郎)。
    • 10月末-軍事に関する一般事項視察のため、米、英、仏、伊、希国等に関中佐らと出張。
  • 1918年(大正7年)5月-欧州より帰朝。軍令部出仕兼海軍大学校教官
    • 10月-27日、浦塩派遣の任を解かれ帰京した加藤寛治宅を訪問[10]
    • 12月-軍令部参謀兼海軍大学校教官
  • 1919年(大正8年)10月-海軍大演習青組審判官(観艦式は横浜沖)。戦艦「伊勢」にて審判するも体調を崩す。
    • 11月6日-任海軍大佐。病没 享年38。

栄典

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著書等

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  • 著書
    • 「海国日本」(1919.8 同文館)
    • 「海へ」(1914 博文館 題字は上村彦之丞、序文は佐藤鐵太郎記す)
    • 「国防の本義」(1919 大鐙閣)
  • 論文
    • 「商権と海上権力」(時事新報 1919.1.3)
    • 「海軍拡張の急務」(亜細亜時論 1917.10)
    • 「海上より見たる現欧州戦役」(地学雑誌 1917.7)
    • 「海上権力と国家との関係」(大日本国防義会会報 1917.7)
  • 作詞
    • 「ボートの歌」(作曲 沼田軍楽師)
    • 「軍艦薩摩軍歌」(作曲 沼田軍楽師)
    • 「日の本っ國」(作曲 瀬戸口藤吉軍楽長)
    • 「海軍執銃体操軍歌」(作曲 田中穂積軍楽長)

参考文献

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  • 「大分市史」1956
  • 佐藤巖「大分県人士録」1914
  • 小俣愨「大分県人名辞書」1917
  • 佐藤巖「新聞遍路」1931
  • 佐藤巖「別府温泉」1915
  • 西日本新聞社「一世紀の青春 大中・上野丘高物語」1979
  • 海軍義済会「日本海軍士官総覧」1943
  • 海軍軍令部「公刊版 明治三十七八年海戦史」1908
  • 海軍軍令部「極秘版 明治三十七八年海戦史」1908
  • 海軍省「公文備考」
  • 「海軍兵学校沿革」1968
  • 「大分新聞」1919

脚注

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  1. ^ 「大分県人士録」P133に…氏や資性闊達にして明敏也…とある。
  2. ^ 「新聞遍路」P147に…海軍兵学校から砲術学校、海軍大学を各首席で卒業、恩賜品を三度も受けた程だったので、その将来を非常に嘱望され未来の軍令部長だなど云うものもあった。
  3. ^ 堀悌吉自伝による。
  4. ^ 「明治三十七年十二月二十日 人事局長 侍従武官宛。振天府拝観 案 堀海軍少尉候補生以下百九十一名。来ル二十二日振天府拝観ノ義ニ付差許候処右指導者トシテ左記四名付属参内相成候間。可然御取計相成度此段及御照会候也。海軍大佐平田得三郎 仝下平英太郎 海軍少佐伊東祐保 海軍中尉溝部洋六。追テ溝部中尉ハ嘗テ拝観相済候旨ニ此段為念申添候也」…海軍省公文備考より。
  5. ^ 公刊版明治三十七八年海戦史に「…此ノ日風静ニシテ波ナク、一天拭フガ如ク…」とある。
  6. ^ 航海長少佐土屋芳樹、砲術長少佐堀田弟四郎、水雷長少佐遠矢勇之助、分隊長少佐湯浅安次郎、同大尉関干城、同大尉江渡恭助、同大尉石田幸太郎。
  7. ^ 6月14日(日)、水雷学校生徒の堀悌吉、江口穀治(何れも同郷32期)が横須賀停泊中の高千穂を訪問。溝部が二人を舟による金沢周遊に誘い、大いに精神修養論を説く。さらに興に乗じ、溝部が漢詩を読む。「一葉の漁舟五客を送る、青嵐波を動かして情緒閑かなり」(堀悌吉書簡より)
  8. ^ 明治20年愛媛県伊方村生。大正13年「私立大分家政女子校設立」。
  9. ^ (1)公衆浴場を清潔にし、湯の加減を適当にするこ。(2)私人のツキ湯に課税し其の数を制限すべし。(3)宅地と庭園と半分々々にあらざれば家屋の建設を許可せざること。(4)温泉神社を創設し、春秋二季、各一、二週日に亘る大祭典を挙行すること。(5)海岸の沙浜は、之を自然のままに保存せざる可からず。(6)別府港と浜脇との中間に、一大桟橋を架設し、汽船の横附けを得せしむること。(7)水道を完全にすること。(8)市区改正を実行すること。(別府温泉より)
  10. ^ (「…10月8日東京駅着。赤煉瓦全く来らず。…10月27日(日)溝部来訪」と加藤寛治日記にあり、この頃両者の関係は親密であった。
  11. ^ 『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。
  12. ^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。

外部リンク

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