溝呂木光治
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溝呂木 光治 八段 | |
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名前 | 溝呂木 光治 |
生年月日 | 1891年1月13日 |
没年月日 | 1940年1月13日(49歳没) |
プロ入り年月日 | 1912年(21歳)[注 1] |
出身地 | 東京府東京市日本橋区新泉町(現:東京都中央区) |
所属 |
東京将棋研究会 →東京将棋連盟 →日本将棋連盟(東京) →将棋大成会(東京) |
師匠 | 小野五平十二世名人 |
弟子 | 間宮純一 |
段位 | 八段 |
2022年2月22日現在 |
溝呂木 光治(みぞろぎ みつはる、1891年〈明治24年〉1月13日) - 1940年〈昭和15年〉1月13日)は、将棋棋士。小野五平十二世名人門下。弟子に間宮純一。
経歴
[編集]東京府東京市日本橋区新泉町(現:東京都中央区)で誕生。実家は裕福な唐物屋であった。
小野の指導を受けた後、19歳で初段の時に井上義雄が主催する東京将棋研究会に所属。1912年(大正元年)に四段となり、1913年(同5年)に五段、1916年(同8年)に六段に昇段する。
3階建ての建物からなる溝呂木道場を構え、3階を國民新聞棋戦の対局場に提供する。このころから大崎熊雄との関係が深まり、大崎派の副将格と目される存在となる。
1919年(大正8年)、京城日報の招聘に応じ、朝鮮の京城府に移住。朝鮮・満洲方面の将棋普及に力を注いだ。
1921年(大正10年)に9勝3敗の成績を収め、七段に昇段。その後、東京の自宅に戻ったものの、八段への道は険しく「万年七段」と自称したという。1940年(昭和15年)、49歳の誕生日に急死。死因は心臓発作であった。没後八段を追贈された。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 四段昇段年
出典
[編集]参考文献
[編集]- 東公平「伝説の棋士 連載弐拾弐」(『近代将棋』2003年10月号62-68頁)
- 京城日報 1919年9月17日付
- 京城日報 1921年1月19日付