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源師俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源師俊
時代 平安時代後期
生誕 承暦4年(1080年
死没 永治元年12月7日1142年1月5日
改名 俊仲→師俊
別名 塔の本の入道中納言
官位 従三位権中納言
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 村上源氏
父母 父:源俊房、母:平重経の娘
養父:源師忠
兄弟 勝覚、証観、方子師頼師時師俊、忠時、実運、俊円、師重、宗光、実縁、仁寛、俊顕、俊智、寛雲、寛真、寛壱、藤原宗俊室、任子、源師能室
養兄弟:師隆師親寛遍輔仁親王師長染殿源師時
源俊頼の娘、源実俊の娘、女房あめつち
師国師盛、寛勝、藤原頼長室、源雅国
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源 師俊(みなもと の もろとし)は、平安時代後期の公卿歌人村上源氏左大臣源俊房の子。大納言源師忠の養子。官位従三位権中納言

経歴

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白河院政期前期の寛治4年(1090年従五位下叙爵弾正少弼兵部権大輔民部権大輔を務める一方で、嘉承2年(1107年)従五位上、永久3年(1115年正五位下と昇進した。

永久4年(1116年)右少弁に任ぜられると、保安3年(1122年)左少弁、保安4年(1123年)右中弁、保安5年(1124年従四位下大治元年(1126年)従四位上、大治4年(1129年正四位下、大治5年(1130年)左中弁と弁官を務めながら昇進する。この間の大治2年(1127年)には大原野祭行事に欠席したため、一時右中弁を止められている。

鳥羽院政期初頭の天承元年(1131年蔵人頭兼右大弁となり、長承2年(1133年参議として公卿に列した。参議任官後も左右大弁を兼ねる一方で、皇后藤原泰子皇后宮権大夫も務め、長承3年(1134年)には従三位に叙せられている。長承4年(1135年)権中納言に至り、20年近くに亘った弁官の職を離れた。

保延2年(1136年)5月13日に病のため出家し、塔の本の入道中納言と称された。永治元年(1141年)12月7日薨去享年62。

人物

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元永元年(1118年)10月2日の「内大臣忠通歌合」などに参加するなど歌人として活発に活動していたらしく、『金葉和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に10首入集している[1]。漢詩にも優れていたとされるが[2]、現在伝わっているのは『和漢兼作集』の2篇のみである。

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ 「詩などよくつくり給ひ」(『今鏡』村上の源氏,堀河の流れ)。「此年、基俊、師俊両入道入滅了、天之亡文哀哉、言詩之席已懶」(『台記』康治元年2月5日条)。との記載があり、当時『新撰朗詠集』を撰集した藤原基俊と並んで漢詩文の分野で評価を受けていたことが窺われる。
  3. ^ a b c 『弁官補任』
  4. ^ 竹鼻[1984: 59]
  5. ^ 『今鏡』による。出自不明。

参考文献

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