湯朝竹山人
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湯朝 竹山人(ゆあさ ちくさんじん、1875年〈明治8年〉4月8日 - 1944年〈昭和19年〉1月2日)は大正・昭和時代前期の小唄研究家。名は観明。著書・編著書には湯朝観明の名前でもクレジットされる。姓は湯浅とも書く。
略伝
[編集]1875年(明治8年)、瀬戸内海東部の家島(現・兵庫県)にある浄土真宗の寺に生まれる。父は住職・湯朝鐵龍。1897年(明治30年)ごろ『万朝報』の記者として宗教欄を担当するほか、社主の黒岩周六(涙香)に代わって「俚謡正調」欄の選者となり、紙面の呼び物として評判となる。大正時代になると、端唄・小唄などの三味線小歌曲や民謡の研究に従事した。晩年は漢詩に没頭し、詩友であった上野の寛永寺山主の世話で凌雲院に寓居する。1944年(昭和19年)正月におたふく風邪の診断を受けて入院し、その2日後に死去。享年70歳。大僧正によって「竹山院釋観明」と追号された[1]。
著作・編著
[編集]- 『理想の家庭』(1905年)
- 『結婚論』(1906年)
- 『通人物語趣味の東京』(1913年)
- 『記者生活硬派軟派』(1913年)
- 『諸国俚謡傑作集』(1915年、辰文館)
- 『禅房の一年間』(1915年)
- 『小唄撰』(1916年、阿蘭陀書房〈アルス社の前身〉)
- 『小唄夜話』(1925年、石渡正文堂)
- 『小唄漫考』(1926年、アルス社)
- 『小唄研究』(1926年、アルス社)
- 『浮れ草』(1927年、アルス社)
- 『歌謡襍稿』(1931年、東北書院)
- 『杯洗の雫』(1934年、書物展望社)