渋沢治太郎
表示
渋沢治太郎 しぶさわ じたろう | |
---|---|
生年月日 | 1878年12月30日 |
出生地 | 埼玉県榛沢郡血洗島村 |
没年月日 | 1942年4月4日(63歳没) |
配偶者 | 渋沢よしえ |
親族 |
父・渋沢市郎(埼玉県会議員) 伯父・須永伝蔵(仙石原村長) 伯父・渋沢栄一(貴族院議員) |
八基村長 | |
在任期間 | 1922年 - 1932年 |
埼玉県会議員 | |
八基村会議員 |
渋沢 治太郎(澁澤 治太郎[1]、しぶさわ じたろう、1878年(明治11年)12月30日 - 1942年(昭和17年)4月4日[2])は、日本の実業家、篤農家[3]、政治家。昭和産業[4]、深谷製絲所各代表取締役[5]、埼玉興業取締役[5]、深谷銀行監査役[5]、深谷倉庫社長[6]。八基村会議員、埼玉県会議員、八基村村長(1922年 - 1932年)。
人物
[編集]埼玉県人・渋沢市郎の二男[1][4]。渋沢栄一の甥[4]。1901年、分かれて一家を創立する[4]。住所は埼玉県大里郡八基村大字血洗島[1][7]。
家族
[編集]- 渋沢家
- 父・市郎(1847年 - 1917年、養蚕家、篤農家、深谷銀行取締役)
- 母・貞(1852年 - 1910年)
- 兄・元治(1876年 - 1975年、電気工学者、名古屋帝国大学初代総長)
- 妻・よしえ(1904年 - ?、群馬、須永一郎[注 1]の二女)[1][4]
- 嗣子[注 2]・恒次(1915年生)、長女・富士子(1925年生)、二女・昭江(1929年生)、三女・栄子(1931年生)[1]
- 甥・享三
系図
[編集]渋沢只右衛門 | 渋沢宗助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋沢えい | 渋沢市郎右衛門 | ○ | 須永惣次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋沢栄一 | 吉岡なか | 渋沢貞 | 渋沢市郎 | 須永伝蔵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積歌子 | 穂積陳重 | 渋沢元治 | 渋沢治太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋沢孝子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋沢享三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『大衆人事録 第12版 北海道・奥羽・関東・中部・外地・満州・支那・海外篇』埼玉13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年1月6日閲覧。
- ^ 『深谷市史 追補篇』深谷市、1980年、p.585-586。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』296頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年1月3日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第9版』シ42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年1月5日閲覧。
- ^ a b c “澁澤治太郞 (第8版)実親子関係がある採録者表示: 澁澤治太郞 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2023年1月3日閲覧。
- ^ “会社案内 Corporation Infomation - 深谷倉庫株式会社 -信頼を積み重ねて100年-”. 深谷倉庫株式会社. 2023年1月7日閲覧。
- ^ 『官報 1916年02月15日』官報 第1059号附録 1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年1月5日閲覧。
- ^ “閨閥学-偉人たちの家系図・子孫・経歴- 婚姻により構築される一族の繋がり 渋沢家(渋沢栄一・渋沢正雄・渋沢武之助の家系図・子孫)”. 2023年1月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1916年02月15日』日本マイクロ写真、1916年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 北海道・奥羽・関東・中部・外地・満州・支那・海外篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。