渋沢作太郎
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渋沢 作太郎(しぶさわ さくたろう、1861年10月14日(文久元年9月11日)[1][2] - 1910年(明治43年)7月4日[3])は、日本の商人(渋沢商店、生糸売込商)[4]、会社役員、名望家[5]。横浜蚕糸外四品取引所理事[4]。横浜火災海上運送信用保険取締役[2]。横浜商業会議所議員[1][2]。族籍は神奈川県平民[2][4]。
渋沢作太郎 | |
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生誕 |
文久元年6月10日 (1861年10月14日) 武蔵国榛沢郡血洗島村 (現埼玉県深谷市血洗島) |
死没 | 1910年7月4日(48歳) |
職業 | 実業家 |
時代 | 幕末 - 明治 |
配偶者 | 渋沢のぶ |
親 |
渋沢喜作(父) 渋沢よし(母) |
親戚 |
渋沢栄一 渋沢敬三 穂積歌子 阪谷琴子 |
家族 |
千葉仁之助(弟) 渋沢義一(弟) 渋沢信一(弟) |
人物
[編集]のちに東京人造肥料取締役となる渋沢喜作の長男[2]。1883年、家督を相続する[2]。生糸売込商で、屋号を「渋沢商店」と称する[2]。1910年、腎臓病のため[3]父に先立ち48歳で死去する[1]。住所は神奈川県横浜市本町[2][4]。墓所は祐天寺。
家族・親族
[編集]- 渋沢家
脚注
[編集]- ^ a b c 『財界物故傑物伝 上巻』598(シ24)頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第2版』し1330頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月9日閲覧。
- ^ a b 『国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.1171
- ^ a b c d 『人事興信録 初版』し1074頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月9日閲覧。
- ^ 『帝国名望家大全』120頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月16日閲覧。
参考文献
[編集]- 吉野民司編『帝国名望家大全』吉野民司、1895年。
- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第2版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 実業之世界社編輯局編『財界物故傑物伝 上巻』実業之世界社、1936年。