清水松三郎
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清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文久2年5月11日[1][2])- 1905年(明治38年)10月18日[3][4])は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県愛知郡岩崎村長。
経歴
[編集]尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡岩崎村[5][4](日進村、日進町を経て現日進市)で、里正・治左衛門の息子として生まれた[5]。志水大三郎に師事し[5]、さらに1875年(明治8年)佐藤牧山について漢学を修めた[2][5]。1879年(明治12年)上京して諸学を学んだ[2][5]。帰郷して農業を営む[3]。
1883年(明治16年)1月、岩崎村戸長に就任[3][4][5]。以後、愛知県勧業委員、愛知郡第四高等小学校学務委員、岩崎村外二ヶ村戸長、岩崎村会議員、愛知郡米野木村外七ヶ村連合会議員などを歴任[3][4][5]。さらに、岩崎村長、愛知郡会議員、同郡農会商議会議員、同郡教育会評議員などを務めた[2][3][4]。1898年(明治31年)10月、補欠選挙で愛知県会議員に当選し、同参事会員、常設土木委員などに在任した[2][3][4][5]。
1891年(明治24年)自由党に入党[5]。以後、憲政党員として愛知支部評議員、同党務拡張委員を務め、立憲政友会では愛知支部評議員に在任した[5]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(愛知県郡部、立憲政友会)で初当選し[2][6]、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙(愛知県郡部、立憲政友会)でも再選され[6]、衆議院議員に通算2期在任した[3][4]。議員在任中の1905年10月に死去した[7]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 鈴木金太 (蔵山) 『衆議院議員候補者評伝 : 逐鹿界之片影』山田丹心館、1902年。
- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。119
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。