清峯門継
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 延暦元年(782年) |
死没 | 斉衡2年閏4月7日(855年5月26日) |
官位 | 従四位下・縫殿頭 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 竹田臣→清峯宿禰→朝臣 |
清峯 門継(きよみね の かどつぐ)は、平安時代初期の貴族。氏は清岑とも記される。氏姓は竹田臣のち清峯宿禰、清峯朝臣。官位は従四位下・縫殿頭。
出自
[編集]清峯氏(清岑氏)は、阿倍氏の一族である竹田氏(竹田臣)の後裔氏族。
経歴
[編集]左京の人。弘仁4年(813年)一族5人と共に、竹田臣から清岑宿禰に改姓する(この時の位階は従八位下)。嵯峨天皇に重用されて、左衛門少尉に抜擢される。弘仁12年(821年)外従五位下・上野介に叙任され、翌弘仁13年(822年)右馬助に転じた。
淳和朝では昇進の機会がなかったが、天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い内位の従五位下に叙せられる。仁明朝では、駿河介・長門守・典薬頭・備後守・縫殿頭と内外の諸官を歴任した。またこの間、承和3年(836年)に宿禰から朝臣に改姓している。承和13年(846年)正五位下、承和15年(848年)従四位下と仁明朝末に昇進した。
のち、難波に隠居するが、斉衡2年(855年)閏4月7日に病により卒去。享年74。最終官位は散位従四位下[1]。
人物
[編集]世俗の事柄に熟練して深く通じていたが、他に才学はなかったという[1]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:従八位下
- 弘仁4年(813年) 正月16日:竹田臣から清岑宿禰に改姓
- 時期不詳:正六位上。左衛門少尉
- 弘仁12年(821年) 正月:外従五位下。4月:上野介
- 弘仁13年(822年) 日付不詳:右馬助
- 天長10年(833年) 3月6日:従五位下(内位)
- 承和元年(834年) 正月12日:駿河介
- 承和3年(836年) 4月:長門守。閏5月24日:宿禰から朝臣に改姓
- 承和4年(837年) 2月:典薬頭
- 承和8年(841年) 正月13日:備後守
- 承和10年(843年) 9月16日:縫殿頭
- 承和12年(845年) 正月7日:正五位下
- 承和15年(848年) 正月7日:従四位下
- 斉衡2年(855年) 閏4月7日:卒去(散位従四位下)