台北大橋
台北大橋 Taipei Bridge | |
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台北大橋現景 | |
座標 | 北緯25度3分49.51秒 東経121度30分22.99秒 / 北緯25.0637528度 東経121.5063861度 |
通行対象 | 台1甲線 |
交差 | 淡水河 |
所在地 | 台湾 台北市と新北市の間 |
正式名称 | 台北大橋 |
別称 | 台北橋、淡水橋 |
維持管理 | 新北市政府工務局養護工程処 |
上流側 | 忠孝橋 |
下流側 | 淡水河橋 |
特性 | |
形式 | 桁橋 |
全長 | 481.6メートル (1,580 ft)[1] |
幅 | 44メートル (144 ft)[1] |
最大支間長 | 62.3メートル (204 ft)[1] |
歴史 | |
建設開始 | 1888年( 清 光緒14年) |
完成 | 1889年(光緒15年)8月 |
開通 |
初代:1889年8月 二代目:1920年4月3日 三代目:1925年6月18日 四代目:1969年11月15日 五代目:1996年7月16日 |
台北大橋 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 臺北大橋 |
簡体字: | 台北大桥 |
拼音: | Táiběi Dàqiáo |
通用拼音: | Táiběi Dàciáo |
注音符号: | ㄊㄞˊ ㄅㄟˇ ㄉㄚˋ ㄑㄧㄠˊ |
発音: | タイベイ ターチャオ |
台湾語白話字: | Tâi-pak Tōa-kiô |
日本語漢音読み: | たいほくおおはし |
日本語慣用読み: | たいぺいおおはし |
英文: | Taipei Bridge |
台北大橋(たいほくおおはし[2]、たいぺいおおはし、タイペイターチャオ)または台北橋(たいほくばし、たいぺいばし、タイペイチャオ)は、中華民国台北市大同区と新北市三重区の境を流れる淡水河に架かる台湾省道台1線の道路橋である。1991年に改修され1996年に現在の姿となっているが[1]、その源流は清朝統治時代の鉄道橋(淡水橋)にまで遡る。その後の台北橋、淡水橋、大橋頭、日本統治時代の大橋町などの地名の由来となっている。
全長481.6メートル[1]、全幅44メートル[1]。平日朝通勤時間帯の自動二輪の渋滞は「バイクの滝(機車瀑布/Motorcycle Waterfall)」として注目され、国外から観光客が見物に訪れる[3][4][5][6]。
沿革
[編集]初代(1889年~)
[編集]現在の台北大橋の前身は清朝統治時代に遡り、1888年(光緒14年)に正式着工された[7][8]。
1889年(光緒15年)8月、初代台湾巡撫の劉銘伝により建設に至り三重埔(現・三重区)と台北大稲埕埠頭が連結された[9][10]。全長は1,498メートルだった[8]。
日本の民俗学者伊能嘉矩の記述では元の設計は鉄橋だったが経費不足により木造橋へと改められた。橋上には鉄道軌道(台北 - 新竹を結ぶ全台鉄路商務総局鉄道。現在の縦貫線の前身)が敷設され、両側には馬車も通れる歩道があった。北岸は鉄製の旋開橋となっていて船舶通航時は開閉されていた[9][11]。ただ木造であったため、河川の氾濫に弱かったばかりか、水に直接晒される橋脚の土台部分は劣化が速く、頻回に補修が必要だった[11]。
1895年(明治28年)、清朝から日本に割譲されると淡水橋と呼ばれるようになった。また清朝軍の退却時に破壊された橋を修繕して鉄道の運行を再開した[12]。
1897年(明治30年)8月に台風の襲来で淡水橋が不通になったことで[9][13]、台湾総督府は鉄道の経路を新店渓を渡河し萬華、板橋と樹林を経由、再度大漢渓を渡河する現在のルートに変更することを決定した[9]。
1899年(明治32年)、旧ルートの鉄道は撤去され新ルートの鉄道開通により、三重埔地区の鉄道の歴史は幕を閉じた[9][14]。その後21世紀に台北捷運が開業する。
当時の淡水橋は大龍峒と大稲埕一帯の重要な交易拠点として機能し、これらの周辺の発展には欠かせないインフラだった[15]。
木造の初代台北橋(1889年)。船舶通航時は写真右側の光線部分の橋桁が開閉されていた。 |
二・三代目(1920年~1969年)
[編集]1920年(大正9年)4月3日木造橋の再開通式典が開催され[16]、名称も台北橋と改称[17]。だが半年も経たない9月4日に淡水河の氾濫で再び被災した[18]。
翌1921年(大正10年)2月、台湾総督府は木造橋による再建を放棄、自動車社会にも対応できるトラス橋での再建に着手した[9][19]。
1925年(大正14年)6月18日午前10時(台湾現地時間)に開通式典が開かれた[8][9][20]。台北橋の名称は維持された[9][21]。
台北橋の「夕陽の鉄橋」は「台北八景」のひとつだった[9][22]。7連のトラス橋を指して「鐵丸七跨」と呼ばれていた[23]。
戦後の1960年橋脚の腐食と劣化が日増しに酷くなったため、架け替えが決定された[24]。1966年7月20日に起工[25]。
四代目(1969年~)
[編集]1969年11月15日、四代目となる台北橋の改修が完工[8][9]。鉄橋からセメントを用いた4車線のコンクリート橋に生まれ変わった[9][21]。当時は通行料が科されていた(1977年7月1日より無料化[26])。橋上の料金所は1990年代の再改築の際に撤去されている。
1987年になると、前年の中興橋崩落事故の影響で交通量が増大していった。台湾省公路局(現在の交通部公路総局)は再改築を決定し[27]、当時上下4車線だった道路部分は6車線へと拡張されることになった[28]。また、自動車専用の主橋両側に副橋を設け、将来的に二輪車と歩行者専用として整備する計画だった[29]。
五代目(1996年~)
[編集]台北大橋(五代目)周辺図 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1991年10月に起工、1996年6月中旬に竣工した[30]。
1996年7月16日午前10時に開通式を開催、正午に正式開通となった[31][32]。これが今日の台北大橋となっている。 二輪車専用レーン(機車道)は橋の前後も含めて上下各650メートルが別途設置されている[33]。
出入口
[編集]- 新北→台北方面
- 西端入口:三重区重新路と福徳南北路の交差点(快車道=2車線自動車レーン+機車道=2車線2輪車レーン)
- 三重環河南路合流入口:三重区環河南路と福徳南路の交差点(機慢車道=1車線自動車レーン+1車線二輪車レーン)
- 東端出口:
- 民権西路と重慶北路の交差点(1車線自動車レーン)、民権西路と大龍街の交差点(1車線バス専用レーン+1車線自動車レーン)
- 民権西路と延平北路交差点(2車線二輪車レーン)
- 台北→新北方面
- 東端入口:
- 民権西路と重慶北路交差点(1車線自動車レーン)、民権西路と大龍街交差点(1車線バス専用レーン+1車線自動車レーン)
- 民権西路と延平北路交差点(2車線二輪車レーン)[34]
- 西端出口:
- 三重区重新路と福徳南北路交差点(2車線高速レーン+2車線二輪車レーン)
- 三重環河北路分岐出口:三重区環河北路と長元街交差点(1車線高速レーン+1車線二輪車レーン)
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2008年の台北大橋
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西行き機車道(二輪車レーン、台北→新北)。左側は環河北路への分岐。
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2008年の台北大橋。東側(台北市方面)に向かう機慢車道。左側は環河南路からの合流。
周辺交通
[編集]現在台北捷運中和新蘆線が台北大橋と平行して淡水河の下を水底トンネルで跨いでいる。両側には以下の2駅が設置されている。
ギャラリー
[編集]過去の台北橋
[編集]- 清朝時代
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1889年清末完成の台北大橋(木造橋)
- 1920年~1969年
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1920年完成の二代目台北大橋(木造橋)
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日本統治時代の1925年に完成した台北大橋鉄橋。上方が三重地区。
現在
[編集]-
三重から眺める台北橋。右側は新北環河快速道路。
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台北橋三重側、台1甲線重新路と福徳路口
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東行(台北市方面)からの台北橋上。右側が機・慢車道、左側が快車道。
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台北橋快車道
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三重区側からみた台北大橋。(2008年)
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橋脚部
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 大台北縣市聯外橋梁伸縮縫維修實務之探討” (PDF). 中華民国交通部公路総局. pp. 第2頁. 2012年6月26日閲覧。 王韻瑾 (2006年3月). “
- ^ 一般名詞としての「大橋」の読みは訓読みの「おおはし」しかないgoo辞書 - 大橋
- ^ You thought your commute was bad! Incredible footage shows 'scooter waterfall' as thousands of bikers cascade down a bridge in Taiwan2017-04-18,デイリー・メール
- ^ 「電動スクーターの滝」1303台、ギネス記録認定/台湾2018-10-08,フォーカス台湾
- ^ motorcycle Waterfall2018-05-05,ナショナル・ジオグラフィック
- ^ 台北:「バイクの滝」橋埋め尽くす2018-06-23,毎日新聞
- ^ “淡水橋の追憶 淡水河唯一の架橋”. 臺灣日日新報: p. 第4版. (1918年5月3日)
- ^ a b c d 『臺北大橋歷史』 台北大橋扶輪社
- ^ a b c d e f g h i j k 鄭懿瀛, ed (2005). 三重市志續編 下冊. 三重市公所. p. 338-345、453-461
- ^ 曾迺碩, ed (1990). 臺北市志卷六經濟志交通篇. 臺北市文獻委員會. p. 21-22
- ^ a b Tales of Sanchong Archived 2012-03-16 at the Wayback Machine. at Sanchong City Government website
- ^ “淡水橋の修繕”. 臺灣日日新報: p. 第3版. (1896年8月24日)
- ^ “風水害詳報 淡水橋流失”. 臺灣日日新報: p. 第2版. (1897年8月10日)
- ^ “本年度の着手鐵道工事”. 臺灣日日新報: p. 第2版. (1899年3月12日)
- ^ Yanping N. Rd. Sec. 3 Night Market[リンク切れ] at Taipei City Market Administration Office website
- ^ “臺北橋開通式”. 臺灣日日新報: p. 第5版. (1920年4月3日)
- ^ “儀式に頭腦を絞る臺北橋と命名”. 臺灣日日新報: p. 第7版. (1920年4月1日)
- ^ “臺北橋交通杜絕”. 臺灣日日新報: p. 第6版. (1920年9月5日)
- ^ “臺北橋再架 永久的大鐵橋”. 臺灣日日新報: p. 第7版. (1921年2月8日)
- ^ “臺北橋の渡初式は”. 臺灣日日新報: p. 第3版. (1925年6月18日)
- ^ a b "From Paddy Fields to Modern High-Rises: 120 Years of Taipei City." Archived 2011-07-17 at the Wayback Machine. at Vision Tourism website. 1 July 2004.
- ^ 1925年…鐵橋夕照 台北八景之一
- ^ 大橋社區発展協會 (2008年2月13日). “台北橋歷史沿革”. 文化部 台灣社區通. 2018年10月28日閲覧。
- ^ “台北橋人行道 今日起開放”. 聯合報: p. 第2版. (1960年12月20日)
- ^ 劉朗 (1969年10月30日). “臺北大橋的故事”. 經濟日報: p. 第8版
- ^ “中興華江台北西螺橋 今起停收過橋費”. 聯合報: p. 第3版. (1977年7月1日)
- ^ “華江、台北大橋決予改建”. 民生報: p. 第6版. (1987年3月21日)
- ^ 沈長祿 (1991年10月8日). “斥資五十億元 八十三年完成 省市將改建台北與華江大橋”. 聯合報: p. 第14版
- ^ “台北大橋今通車 汽車禁駛邊橋”. 聯合報: p. 第13版. (1996年7月16日)
- ^ 董智森 (1996年6月27日). “台北橋引道通車延後 市長要辦人”. 聯合報: p. 第13版
- ^ 盧禮賓 (1996年7月17日). “省市縣合力完成 台北大橋通車”. 聯合報: p. 第13版
- ^ 林家群 (1996年7月16日). “台北大橋今日正午啟用”. 中國時報: p. 第14版
- ^ 臺北市文獻委員會 (2015年12月). “續修臺北市志 卷五 交通志 鐵公路與航運篇”. 臺北市政府文獻館. p. 91. 2018年10月28日閲覧。
- ^ 北上洽公路不熟 誤闖機車道急煞害追撞2015-11-03,台灣蘋果日報
関連作品
[編集]関連項目
[編集]関連書籍
[編集]- 賴進貴等, ed (2003年10月). 台北河川橋樑之旅. 台北市政府新聞處. ISBN 957-01-5232-X
- 李乾龍 (2005年8月). 蔡棟雄. ed. 戀戀三重埔:老照片說故事. 臺北縣三重市公所. ISBN 986-00-1599-6
外部リンク
[編集]映像外部リンク | |
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Amazing Scooter Traffic Jam [Taipei, Taiwan] - YouTube |
- 戀戀三重埔系列一 【乙、台北大橋】 三重区公所 (一部 )
- 新北市政府養護工程處 新北市政府工程局