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海塚新八

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

海塚 新八(かいづか しんぱち、前名・卯三郎[1]1872年10月11日明治5年9月9日[2] - 没年不明)は、日本実業家、広島県多額納税者[3][4]。東洋コルク工業(現・マツダ)の初代社長。族籍は広島県平民[1][2][5]

来歴・人物

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広島県人・海塚新八の長男[2][4]1914年家督を相続し、前名・卯三郎を改め襲名する[2][4]。銀行、会社の重役である[2]

広島産業銀行頭取、広島電気社長、広島合同貯蓄銀行藝備銀行、日本麻紡績、広島電気製作所、中外商事、芸備鉄道各取締役、中国商業銀行、可部銀行、広島米穀取引所各監査役、広島株式取引所理事などを務めた[5][6]。1920年からは東洋コルク工業(現・マツダ)の初代社長も務めた[7]

『商工資産信用録 第22回』によると、海塚新八(調査年月・1921年8月)は「正身身代・G、信用程度・Aa、職業・金穀貸付」である[8]貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する[9]。住所は広島市塚本町[1][2][4][5]

家族・親族

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海塚家
  • 父・新八[2]1847年 - 1913年) - 佐伯郡海老塩浜(現・広島市佐伯区)の塩田経営の清水屋新平の次男に生れ、1872年に広島の西地方町の質屋・肥料問屋・海老屋の養嗣子となり、肥料商の傍ら金融業を営んで身代をつくって一代で広島財界の有力者となる[10]
  • 継母・イワ1853年 - ?、広島、秦正作の長女)[2]
  • 妻・ヤエ1873年 - ?、広島、深田稔の妹)[1][2]
  • 長男・彦三郎1891年 - ?、広島産業銀行取締役)[4]
    • 同妻・シゲ1900年 - ?、広島、本田権平の養子)[5][11]
  • 二男[5]
  • 三男[1]
  • [5]
親戚

脚注

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  1. ^ a b c d e 『人事興信録 第4版』か26頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第5版』か37頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月17日閲覧。
  3. ^ 『日本紳士録 第35版附録』附録 全国多額納税者 広島県61頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e 『人事興信録 第9版』カ41頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 『人事興信録 第7版』か36頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月17日閲覧。
  6. ^ 「海塚新八 (男性)」日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース(名古屋大学大学院法学研究科)
  7. ^ 「数字で学ぶ百年史歴代社長」マツダ
  8. ^ 『商工資産信用録 第22回』広島県か之部259頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年12月6日閲覧。
  9. ^ 『貴族院多額納税者名鑑』469頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月17日閲覧。
  10. ^ 銀行家の資質とリスク管理-金融恐慌期の広島産業銀行を中心に-(小川功)30頁、滋賀大学経済学部研究年報Vol8 2001。
  11. ^ 「本田權平 (男性)」日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース(名古屋大学大学院法学研究科)

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 商業興信所編『商工資産信用録 第22回』商業興信所、1921 - 1926年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 織田正誠編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第35版附録』交詢社、1931年。