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流敏晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
流 敏晴
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県北九州市
生年月日 (1948-07-07) 1948年7月7日
没年月日 (2016-09-15) 2016年9月15日(68歳没)
身長
体重
175 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1966年 第1次ドラフト2位
初出場 1967年5月13日
最終出場 1972年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

流 敏晴(ながれ としはる、1948年7月7日 - 2016年9月15日[1])は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手投手)、プロ野球スカウト長崎国際大学硬式野球部監督。

来歴・人物

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小倉商業高校では、2年生の時に1965年秋季九州大会県予選で県北部決勝まで進むが小倉高に敗退。翌1966年春季九州大会県予選では2回戦で八幡高を相手に7回コールドながら完全試合を達成して注目される。同年夏の甲子園県予選では準々決勝で柳川商に惜敗、甲子園には出場できなかった。

1966年第1次ドラフト会議阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。足立光宏山田久志に続くアンダースロー。飄々とした風貌から投げられるシュートカーブを武器に6年目にプロ入り初勝利を挙げる。

1976年引退後も阪急の球団職員として残り、チーム付スコアラーとして活動。球団がオリックスになったのち、1993年からは編成部に異動し、トレードスカウト活動に従事。2005年には編成部長に就任。2008年定年を迎えたあともスカウト活動を継続していたが、2014年12月末日をもって契約満了に伴い退団した[2]

その後2015年1月に学生野球指導資格を回復し、同年4月に硬式野球部が創部された長崎国際大学の初代監督に就任した[2][3][4]2016年より九州地区大学野球連盟に加盟し、北部九州ブロック2部リーグ参戦。春季は2位にチームを導いた[5]。同年の秋季リーグのさなかの9月15日、胸部大動脈瘤破裂のため急逝。68歳没[1]。指揮官を失った長崎国際大ナインは、毎試合、流の遺影に黙祷を捧げてから試合に臨み、参戦1年目にして秋季リーグ優勝、1部昇格を果たした[5]

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1967 阪急 2 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 16 3.0 6 0 2 0 0 0 0 0 4 4 12.00 2.67
1971 5 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 35 9.0 6 1 3 0 0 2 0 0 3 3 3.00 1.00
1972 5 3 1 0 0 1 1 -- -- .500 88 21.2 20 2 5 1 0 9 1 0 7 7 2.86 1.15
通算:3年 12 5 1 0 0 1 2 -- -- .333 139 33.2 32 3 10 1 0 11 1 0 14 14 3.71 1.25

記録

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背番号

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  • 38 (1967年 - 1975年)
  • 82 (1976年)

脚注

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  1. ^ a b “元オリ編成部スカウト・流敏晴氏が死去”. サンケイスポーツ. (2016年9月17日). https://www.sanspo.com/article/20160917-URP2P7KH5ROTNNLTGXFAZ72X2I/ 2016年9月17日閲覧。 
  2. ^ a b 【大学総合】平成27年4月設置予定の長崎国際大学硬式野球部に、監督として「流 敏晴」氏が就任することが決まりました。”. 大学総合トピックス. 長崎国際大学 (2015年3月10日). 2020年9月18日閲覧。
  3. ^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P19
  4. ^ 森脇監督付に元阪神杉山直久氏 オリ人事 ニッカンスポーツ・コム、2014年12月26日閲覧
  5. ^ a b “流敏晴さん死去:長崎国際大野球部監督、安らかに 九州北部2部優勝を報告 /長崎”. 毎日新聞. (2016年10月14日). https://mainichi.jp/articles/20161014/ddl/k42/050/357000c 2020年9月18日閲覧。 

関連項目

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