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洪秀煥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
洪秀煥
基本情報
国籍 大韓民国
誕生日 (1950-05-26) 1950年5月26日(74歳)
プロボクシング戦績
勝ち 41
KO勝ち 14
敗け 5
引き分け 4
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洪 秀煥(ホン・スファン、홍수환、1950年5月26日 - )は、大韓民国の元男子プロボクサー。韓国史上二人目のボクシング世界チャンピオンであり、韓国初の二階級制覇を達成した。2012年1月、韓国ボクシング委員会(KBC)会長に就任。妻は歌手の玉姫朝鮮語版[1]

経歴

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1969年5月10日、キム・サンイル戦でデビュー(4R引き分け)。

1971年9月14日、韓国バンタム級タイトル獲得。

1972年6月4日、東洋ボクシング連盟バンタム級タイトル獲得[2]

1974年7月3日、南アフリカでWBA世界バンタム級チャンピオンのアーノルド・テイラー英語版に15回判定勝ちし、世界タイトルを獲得する[3]。国際電話で母に報告した時の「 엄마야 나 챔피언 먹었어(母ちゃん、チャンピオン取ったよ)」は流行語にもなり一躍国民的英雄となった[4][5]

1974年12月28日 、ソウルで行われた初防衛戦でフェルナンド・カバネラ(フィリピン)に判定勝ち[6]

1975年3月14日、米国で行われた2度目の防衛戦でアルフォンソ・サモラに4回KO負け[7]

1976年10月16日、仁川でサモラと再戦し12回TKO負け[8]

1977年6月27日、韓国版「サモラ対サラテ」と注目された廉東均戦で12回判定勝ち[9]

1977年11月27日、パナマで行われたWBAジュニアフェザー級(スーパーバンタム級)初代王座決定戦で17歳のエクトル・カラスキリャ[10](パナマ)に2回に4度のダウンを喫しながらも3回逆転KO勝利し2階級制覇を達成する[11]。その戦いぶりは「四転五起神話」と評された[12]韓国TBSラジオは聴取者のリクエストに応えて27回再放送をした[13]

1978年2月1日、東京蔵前国技館で行われた初防衛戦で笠原優に15回判定勝ち[14]

1978年5月7日、ソウルで行われた2度目の防衛戦でリカルド・カルドナに12回TKO負け[15]

1980年12月19日の廉東均との再戦(10R引き分け)[16]を最後に引退し、解説者に転向する。

2007年9月、韓国拳闘人協会初代会長に就任する。(2008年6月退任)[17]

2012年1月、プロボクサー出身者として初めて韓国ボクシング委員会会長に就任する[18]

脚注

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  1. ^ EBS1 '리얼극장', 옥희와 홍수환 딸 이야기聯合ニュース 2015年11月2日
  2. ^ [1]東亜日報 1972年6月5日
  3. ^ [2]東亜日報 1974年7月4日
  4. ^ 주영진의 뉴스브리핑 "엄마 나 챔피언 먹었어"…4전 5기' 역전승의 주인공!SBS 2017年11月27日
  5. ^ 우리나라 권투의 신화, 홍수환 “나 챔피언 먹었어.” - YouTube [광화문의 아침] 327회 20160930 TVCHOSUN
  6. ^ [3]東亜日報 1974年12月30日
  7. ^ [4]東亜日報 1975年3月15日
  8. ^ [5]東亜日報 1976年10月18日
  9. ^ [6]東亜日報 1977年6月28日
  10. ^ のちに政治家として要職を歴任する。Héctor Valdés CarrasquillaAsamblea Nacional de Panamá
  11. ^ [7]東亜日報 1977年11月28日
  12. ^ 홍수환이 말하는 '4전5기' 진짜 의미…"결과 아닌 과정"jtbc 2014年11月26日
  13. ^ 4전 5기 전했던 박병학, 다시 해설대에 오르다オーマイニュース 2015年7月14日
  14. ^ [8]東亜日報 1978年2月2日
  15. ^ [9]東亜日報 1978年5月8日
  16. ^ [10]東亜日報 1980年12月20日
  17. ^ 沿革KBI 韓国拳闘人協会
  18. ^ 피플+ 홍수환·유명우 "한국 권투 회생 불가능 아냐"(인터뷰) アジア経済 2012年2月23日

外部リンク

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