津田鍛雄
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津田 鍛雄(つだ かじお、1871年6月22日(明治4年5月5日[1])- 1921年(大正10年)11月30日[2][3])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]備前国児島郡天城村[2](岡山県[3]児島郡藤戸村[4]、藤戸町を経て現倉敷市藤戸町天城)で、岡山藩天城池田家家臣・津田一陣の長男として生まれた[1][2]。6歳で父(陸軍少尉)は西南戦争(田原坂の戦い)で戦死した[2]。小学校、大津開達学校を経て[1]、1894年(明治17年)9月、京都同志社に入り[1]、1889年(明治22年)同志社普通学校を卒業[1][2][3][4]。その後、東京専門学校(現早稲田大学)英語政治科[注釈 1]で学んだ[1][2]。
1895年(明治28年)9月に帰郷[1]。有志と岡山英学校を設立[2]。また、味野紡績、児島銀行の創設にも参画し[2]、同行相談役[2][3][4]、同支配人[1]を務めた。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(岡山県郡部、壬寅会)で当選し[2][5]、衆議院議員に1期在任した[3][4]。
その後朝鮮に渡り[2][3]、平安北道熙川郡の金鉱採掘権を取得し[2]、韓国金鉱社長、朝鮮鉱業理事、朝鮮森林鉄道取締役、朝鮮興業鉄道取締役、朝鮮私設鉄道協会理事などを務めた[2][3]。
1921年11月、朝鮮で死去した[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『岡山県歴史人物事典』644頁では英語学科。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。