津熊氏
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津熊氏 | |
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本姓 |
不詳 称・宇多源氏 [要出典] |
種別 | 豪族 |
主な根拠地 | 河内国 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
[編集]河内の豪族で、楠木氏に従った忠臣として津熊三郎がいるとされる[1]。その後、永禄2年(1559年)交野郡五箇郷侍連名帳に「津田村津熊郎左衛門尉義秀、津熊源左衛門義安、藤坂村津熊玄蕃頭兼重、及び禰宜津熊中務敦弘」が挙げられ、寛永17年(1640年)三宮拝殿着座覚には「津田村津熊氏壹軒、藤坂村津熊氏壹軒」が記される[1]。
主要人物
[編集]平安時代
[編集]- 津熊庄の豪族である津熊盛武が現在の津田・藤坂一帯を治め、天治元年(1124年)に三宮神社を再興した。
その後治承2年(1178年)、京より従五位下文章博士の中原副雄が派遣され、同地を治める。
南北朝時代
[編集]- 津熊三郎参照。
戦国時代
[編集]- 津田正昭が三好長慶に知行地として安堵されるが、織田信長の畿内平定の折、明智光秀軍により津田城とその支城津熊砦が焼失とある。本能寺の変後、津田正時は明智軍に加勢するが討死し、豊臣時代は建部内匠守が治める。
以前より南都興福寺の傘下にあり、国人として津田村津熊郎左衛門尉義秀、津熊源左衛門義安、藤坂村津熊玄蕃頭兼重、及び禰宜津熊中務敦弘(交野郡五箇郷侍連名帳/永禄2年(1559年))が見られるが、この時代積極的には参戦しなかった。
江戸時代
[編集]- 外様の建部内匠守は播磨の林田へ転封。初代大阪町奉行である旗本・久貝因幡守正俊の知行地となる。
津熊武範は子育て書(教訓女朝鏡/宝暦3年(1753年))を編纂。 また、大庄屋津熊藤十郎が長尾陣屋へ提出する文書(河内国交野郡藤坂村旧記(西法寺所蔵)/寛政3年(1791年))を写し書きし、旦那寺の西法寺に預ける。同文書に庄屋津熊唯治郎も見える。
- 豊臣政権下で尼崎郡代700石であった池田氏一門の家老建部氏は、宗主である姫路藩主池田氏の転封により林田に移り、林田藩が成立。その折、長尾の一部の津熊氏も建部氏の家臣として林田へ入植した。(元和3年(1617年))
池田家文庫の筆頭家老伊木家の藩士奉公書(明治2年11月(1869年))によると「陪臣. 主人:家老・建部池田. /先祖:津熊半右衛門(津熊貞吉.津熊隈図を改名).津熊繁右衛門(津熊浅吉.津熊源太右衛門を改名).父・津熊繁右衛門. 書上:津熊Ж(津熊常之丞を改名);」とある。
地名
[編集]津熊の森(倉敷市玉島)
神輿名・神社
[編集]津熊屋台(姫路市甲八幡神社)、 津熊地(うぶすな)神社(姫路市豊富町)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『枚方市史』[要文献特定詳細情報]
- 太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』姓氏家系大辞典刊行会、1936年 。
- 片山長三『津田史』津田小学校創立八十周年記念事業発起人会、1957年。[要ページ番号]
- 寺島正計『藤坂の今昔物語』私家版、1999年。[要ページ番号]
- 岡山大学附属図書館 池田家文庫マイクロ目録 伊木家(伊木D3-293)