津守大海
津守 大海(つもり の おおあま、生没年不詳)は、日本古代の豪族。姓は連。
記録
[編集]『日本書紀』巻第二十四によると、皇極天皇元年(642年)1月、阿曇連比羅夫の筑紫国からの駅馬(はいま=早馬)により、百済が大乱状態になっているという情報が伝わり[1]、弔使の従者の話で、正月に国王の母がなくなり、弟王子の子である翹岐と、その同母妹たちや百済の高官40人あまりが島流しにされたことがわかった[2]。
同じ月、高句麗の使者より、高句麗でも前年(641年)の6月に弟王子(太陽王)が薨去し、9月に伊梨柯須弥(いりかすみ)が大王(こきしむ=栄留王のこと)を弑逆して、重臣180人あまりを殺して、太陽王の子を王とした(宝蔵王)。同姓の都須流金流(つするこむる)を大臣として実権を握った、という知らせがあった[3](『旧唐書』高麗伝では貞観16年(642年)の出来事としており、『書紀』の記述と1年の差がある)
以上の情報を得た大和政権は高句麗・百済の客(まろうと)を難波の郡(こおり)で饗応したあと、蘇我蝦夷に詔をして、
にそれぞれ使いとして出すことが決定された[4]。この中で津守大海のみ連姓を有し、他の3名よりは高い地位にあったところから、蘇我氏や朝廷が高句麗の政情に関心を持っていたことがわかる。津守連氏は、八色の姓制定により、684年(天武天皇13年12月)、宿禰の姓を与えられている[5]。 津守宿禰氏については、『新撰姓氏録』「摂津国神別」によると「尾張宿禰同祖」とあり、「天火明命八世孫大御日足尼之後也」とあるが、宮内庁書陵部所蔵の「津守氏系図」では「大御田足尼」と表記され、『住吉大社神代記』では「意富弥多宿禰」が「津守宿禰遠祖也」とされているため、「田」を「日」と書き誤った可能性がある。津守連氏は、「和泉国神別」に火明命の神男天香山命の後裔としている。神功皇后摂政前紀12月条には津守連の祖である田裳見宿禰(たもみ の すくね)が登場しているが、「津守氏系図」では「手搓足尼」と表記されている。
一族の中から外交で活躍したものを多く輩出しており、巻第十九では、欽明天皇の時代に百済に派遣された己麻奴跪(こまなこ)[6]、巻第二十六では斉明天皇の時代に遣唐使になった吉祥(きさ)[7]らのことが記述されている。
この後、3月に新羅が皇極天皇の即位を祝う賀登極使と、舒明天皇の弔喪使を派遣した[8]。5月、百済の調の使の船と(国勝の)吉士の船が難波津に停泊し、百済の使者が進調し、吉士が服命(帰朝の報告を)した[9]。8月、高句麗の使者が帰国の途につき[10]百済と新羅の使者が帰国の途についた[11]10月、新羅の弔使の船と賀騰極使の船が壱岐島に停泊したという[12]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本書紀』(二)- (五)岩波文庫、1994年、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)・(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『蘇我氏の古代史 謎の一族はなぜ滅びたのか』、武光誠、平凡社新書、2008年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年