泉靖一
人物情報 | |
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生誕 |
1915年6月3日 日本東京都 |
死没 | 1970年11月15日 (55歳没) |
出身校 | 京城帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 文化人類学 |
泉 靖一(いずみ せいいち、1915年6月3日 - 1970年11月15日)は、日本の文化人類学者。東京大学東洋文化研究所教授。専門は文化人類学。
生涯
[編集]1915年、東京府雑司ヶ谷に京城帝国大学教授の父・泉哲、母・ハツヨの長男として出生。本籍地は北海道夕張郡角田村(栗山町の前身)。東京市青柳尋常小学校入学-豊島師範学校付属小学校(4年次転入)、日本統治の朝鮮・京城府公立東大門尋常小学校(6年次転入)、京城公立中学校、京城帝国大学予科、京城帝国大学法文学部(当初は文学科、のち哲学科に転科)を卒業。その後は京城帝国大学法文学部助手をはじめに、同大・理工学部助手兼書記、同大・学生主事補、同大・大陸資源科学研究所嘱託、同大・法文学部助教授を経て、太平洋戦争の敗戦による朝鮮統治の終了と大学の閉鎖で、福岡市博多へ引き揚げる。
占領期の数年間は、博多の聖福寺境内に設置された在外同胞援護会救療部に勤務[1]。1949年4月に明治大学政治経済学部助教授。1951年11月に東京大学(東洋文化研究所助教授)に転出した[2]。東洋文化研究所での同僚の一人に考古学者の江上波夫がいた。
1955年4月に東京大学教養学部へ配置換えとなる。教養学部在職時の著名な弟子に川田順造・増田義郎がいる。1962年4月には石田英一郎と入れ替わるかたちで、東洋文化研究所に配置換えとなり、1964年11月に同研究所教授に昇任した。1970年4月に同研究所長となったが、学園紛争の処理などもあり多忙を極めた。梅棹忠夫らと共に、国立民族学博物館設置に向けて活動した。開館後の初代館長に内定していたが、同年11月15日に脳出血で急逝した[3]。なお国立民族学博物館は、泉の死からちょうど7年後の1977年11月15日に一般向け開館となった。
家族・親族
[編集]- 父:泉哲は植民政策学者・明治大学/京城帝国大学教授を務めた。
- 祖父:泉麟太郎は添田家より養子入りした。
- 麟太郎の実兄(泉の大伯父)である添田龍吉の娘・波留は野呂家に嫁ぎ、のちに経済学者となる野呂栄太郎を産んでいる。
受賞・栄典
[編集]著作
[編集]単著
[編集]- 『社会学講義資料Ⅰ ある山村のモノグラフ』敬文堂書店、1950年。
- 『インカ帝国』岩波新書、1959年。復刊2002年ほか
- 『インカの祖先たち』(文藝春秋新社、1962年)毎日出版文化賞
- 『アンデスの芸術』(中央公論美術出版、1964年、新版1978年)
- 『済州島』(東京大学出版会、1966年、新版1991年)
- 『フィールドノート 文化人類学・思索の旅』(新潮選書、1967年)日本エッセイスト・クラブ賞
- 『フィールド・ワークの記録 文化人類学の実践』(講談社現代新書、1969年)
- 『文化のなかの人間』(文藝春秋、1970年)
- 『遙かな山やま』(新潮社、1971年)
- 『泉靖一著作集』(全7巻、読売新聞社、1971-72年)、寺田和夫ほか編
- 『フィールド・ワークの記録 1』
- 『フィールド・ワークの記録 2』
- 『ラテン・アメリカの民族と文化』
- 『アンデスの古代文化』
- 『文化人類学・思索の旅』
- 『文化人類学に何を求めるか』
- 『文化人類学の眼』
主な編著
[編集]- 『移民 ブラジル移民の実態調査』(古今書院、1957年)
- 『世界の名著59 マリノウスキー レヴィ=ストロース』(中央公論社、1967年)、のち新装版〈中公バックス〉
- 『アイヌの世界』(鹿島出版会、1968年)
- 『構造主義の世界』(大光社、1969年)
- 『現代の冒険8 失われた文明を求めて』(文藝春秋、1970年)
- 『人類と文明』(東京大学出版会、1972年)
- 『住まいの原型Ⅰ』(鹿島出版会〈SD選書61〉、1971年)
翻訳・共著
[編集]- ウィリアム・ルイス・ハーンドン『アマゾン探検記』(河出書房「世界探検紀行全集 第8巻」、1955年/「世界探検全集」河出書房新社、1977年、新版2022年、関野吉晴解説)
- マリノフスキー『未開人の性生活』(蒲生正男・島澄共訳、河出書房、1957年/新泉社、1971年、新版1999年ほか)
- 寺田和夫と『コトシュ発掘の最終報告書』(東京大学出版会、1972年)
- 岡本太郎と『対話 日本人は爆発しなければならない 日本列島文化論』(大光社、1970年、ミュゼ(改訂復刻版)、2000年)