治粟都尉
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治粟都尉(ちぞくとい)は、古代中国の漢の時代におかれた官職である。常設ではない。確認できる任用者は、紀元前206年の韓信と、紀元前110年から紀元前100年までの桑弘羊である。
韓信
[編集]秦が諸国の反乱で滅ぼされた後、楚の将の一人劉邦は、漢王として漢中に封じられた。そのとき部下の韓信が就いたのが治粟都尉である[1]。韓信はこの職に不服で、逃亡をはかった。引き留められた韓信は、高祖元年(紀元前206年)4月に大将[2]または大将軍[3][4]に任命された。韓信が治粟都尉だったのはほんの数か月で、後任があったかは不明である。
治粟都尉の職務内容について教える史料はないが、軍隊の食糧調達に関わると言われる[5]。似た名の治粟内史は秦と漢初の経済・財政の長官で[6]、同時期に姓不明の襄が任じられていた[7]。
桑弘羊
[編集]武帝時代の元封元年(紀元前110年)に、桑弘羊が治粟都尉に任命され、農業・商業・国家財政を統括する大農の長官になった[8]。本来の制度では大農令が長官だが、それを欠員とし、一段低い地位から桑弘羊をこの要務にあてたものである。大農令は、治粟内史を改称して設けられた官職である[6]。
桑弘羊は天漢元年(紀元前100年)に大農令を改称した大司農となった[9]。太始元年(紀元前96年)に降格されて捜粟都尉となった[9]。治粟都尉のときと同じく、大農を統括したと推定される[10]。
漢の制度を記した『漢書』百官公卿表には、武帝時代の官職として捜粟都尉はあるが、治粟都尉は記されていない[6]。桑弘羊の治粟都尉は、捜粟都尉の誤りではないかという説がある[11]。
脚注
[編集]- ^ 『漢書』巻34、韓彭英盧呉伝、韓信伝。ちくま学芸文庫『漢書』4の100頁。
- ^ 『漢書』巻34、韓彭英盧呉伝、韓信伝。ちくま学芸文庫『漢書』4の102頁。
- ^ 『漢書』巻1、高帝紀第1上、元年夏4月。ちくま学芸文庫版『漢書』1の29頁。
- ^ 『漢書』巻16、高惠高后文功臣表第4、淮陰侯韓信。ちくま学芸文庫『漢書』2の71頁。
- ^ 山田勝芳「秦漢時代の大内と少内」、21頁。
- ^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。ちくま学芸文庫『漢書』2の120頁。『『漢書』百官公卿表訳注』86頁。
- ^ 『漢書』卷16、高恵高后文功臣表第4、棘丘侯襄。
- ^ 『漢書』食貨志第24下。ちくま学芸文庫版『漢書』2の480頁。
- ^ a b 『漢書』巻19上、百官公卿表第7下、天漢元年。『『漢書』百官公卿表訳注』204頁。
- ^ 西嶋定生『中國経済史研究』104 - 105頁。
- ^ ちくま学芸文庫『漢書』2の498頁、注85。