河野李由
河野李由 | |
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誕生 |
1662年??月??日 日本 近江国 |
死没 | 1705年8月11日 |
職業 | 僧・俳諧師 |
ジャンル | 俳句 |
ウィキポータル 文学 |
河野 李由(こうの りゆう、寛文2年(1662年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸時代前期の僧・俳人、近江蕉門。浄土真宗本願寺派の彦根明照寺(光明遍照寺)14世住職、律師。字は買年、諱は通賢と言い、釈名を亮爾と号す。近江国の生まれ。父は河野通仁。子に河野通惠(自蹊)。
生涯
[編集]李由は伊予河野氏の末裔と伝えられる。寛文2年(1662年)に生まれ、かねてから松尾芭蕉の風雅を慕い、修行中に法用と称して元禄4年5月1日(1691年5月28日)京都嵯峨野の向井去来別荘落柿舎で「嵯峨日記」執筆中の芭蕉を訪れ入門した[1]。
蕉門十哲の一人森川許六は度々明照寺に遊び、芭蕉も李由入門直後に寺を訪れた[2]。芭蕉と李由の師弟関係は「師弟の契り深きこと三世仏に仕ふるが如し」と伝えられている[3]。芭蕉死去後、渋笠を形見に貰い受け、明照寺境内に埋め笠塚を築いた[2][3]。
元禄15年(1702年)、森川許六と共に「韻塞(いんふたぎ)」、「篇突(へんつき)」、「宇陀の法師」を編む[4]。その後、宝永2年6月22日(1705年8月11日)李由死去する。生前明照寺の庭に4本の梅の木があることに因み「四梅廬」と、また「月沢(つきのさわ)同人」とも称した[2][3]。
家系
[編集]『本朝文選』の中で、蕉門十哲の一人で彦根藩士の森川許六の記した「断弦ノ文」にて、次のように李由の系譜が載せられている。
江東平田の邑、光明遍照寺、十四世の僧、亮隅上人。字は李由、一の字は買年、四梅盧と号す。嘗て律師に任ず。
姓は河野の嫡流にて安芸の宍戸を兼ね合わせたり。母はなむ、やむ事なき深窓の娘にして、藤原なりけり。
李由は伊予河野氏の末裔である(実際に明照寺には河野氏由来の書状が伝来している)と称し、父方には安芸国の国人領主で、後に毛利氏の一門となった宍戸氏の出であると伝えられている。当時の彦根藩には安芸宍戸氏の一族が仕官しており、森川許六の娘は宍戸四郎左衛門と結婚している。
著作
[編集]- 「韻塞(いんふたぎ)」森川許六と共同編集
- 「篇突(へんつき)」森川許六と共同編集
- 「風俗文選」森川許六と共同編集(一部)
- 「宇陀の法師」森川許六と共同編集
- 「疝の気傳」
- 「俳諧の頌」
- 「南行紀」
代表句
[編集]- 秋の野を 遊びほうけし 薄かな
- いつの時 人に落ちけん 白牡丹
- 稲むしろ 近江の国の 広さかな
- 踊るべき ほどには酔て 盆の月
- 草刈よ それが思ひか 萩の露
- 雲の峰 石臼を挽く 隣かな
- 竹ノ子や 喰残されし 後の露
- ちか道を 教へぢからや 古柳
- 菜の花を 身内に付けて なく蛙
- 袴きぬ 聟入もあり としの昏
- 春近き 三年味噌の 名残かな