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河辺博長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
河邉 博長
時代 幕末 - 昭和時代
生誕 慶応元年3月21日1865年4月16日[1]
死没 昭和5年(1930年4月4日[1][2]
改名 昔丸(幼名)[3]
墓所 青山霊園
官位 正三位勲四等
主君 明治天皇大正天皇昭和天皇
氏族 万里小路家河辺家
父母 父:万里小路博房
養母:河辺英子
起志枝(先妻)
寿々(後妻)
正長、辰雄、保子
三郎、治雄、博雄、文子、秀雄
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河辺 博長(河邉、かわべ ひろなが)は、明治から昭和期の政治家神官華族位階および勲等正三位勲四等貴族院男爵議員

経歴

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大正天皇即位大礼の典儀官時の河辺博長(1915年)

山城国京都右中弁万里小路博房の四男として生まれる[1][4][5]1884年(明治17年)5月23日、伊勢神宮大宮司の家系である河辺家当主・河辺英子(ふさこ、故河辺長量夫人、本多忠升十女)の養子となり家督を継承[1][4]。同年7月、博長と改名し[3][5]、同月8日、男爵を叙爵した[1][4][6]

1884年、宮内省十七等出仕となる[2]。以後、明宮(大正天皇)祗候、青山御所祗候、府社亀戸神社社司などを務めた[2][4][5]1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[7][8]1911年(明治44年)7月9日まで1期在任した[2]

親族

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  • 先妻:起志枝(きしえ、1869 - 1911) - 岡本保庸長女[1]
    • 長男:正長(1902 - 1919)[1]
    • 次男:辰雄(1904 - 1935)[1]
    • 長女:保子(1906 - 1940)[1]
  • 後妻:寿々(すず、1892 - 1945) - 石黒藤次郎四女[1]
    • 三男:三郎(1913 - ) - 正五位男爵、下鴨神社安房神社宮司[1]
    • 四男:治雄(1915 - 1940)[1]
    • 五男:博雄(1919 - )[1]
    • 次女:文子(1923 - ) - 三井鐵太郎室[1]
    • 六男:秀雄(1926 - 1949)[1]

栄典

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 霞会館 1996, p. 468–469.
  2. ^ a b c d 衆議院・参議院 1990, p. 68.
  3. ^ a b 筒井住蓮 1911, p. 78.
  4. ^ a b c d 人事興信所 1928, p. カ201.
  5. ^ a b c 杉謙二 2011, p. 424.
  6. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、14頁。
  8. ^ 『官報』第6324号、明治37年7月29日。
  9. ^ 『官報』第511号、明治18年3月18日。
  10. ^ 『官報』第2391号、明治24年6月20日。

参考文献

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  • 筒井住蓮 編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。 
  • 人事興信所 編『人事興信録』(8版)、1928年。 
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院 編『議会制度百年史:貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』 上、吉川弘文館、1996年。 
  • 杉謙二 編『華族畫報』《上》吉川弘文館、2011年。  - 華族画報社大正2年刊の複製
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
河辺家初代
1884年 - 1930年
次代
河辺三郎