河津祐泰
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時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 久安2年 (1146年) |
死没 | 安元年2年(1176年)10月 |
別名 | 祐通、三郎 |
墓所 | 静岡県伊東市 東林寺 |
氏族 | 伊東氏、河津氏 |
父母 | 伊東祐親 |
兄弟 | 祐泰、伊東祐清、北条時政前室、三浦義澄室、万劫御前(工藤祐経前室、土肥遠平室)、八重姫、ほか |
妻 | 満功御前(横山時重娘、工藤茂光の孫) |
子 | 祐成、時致、律師 |
河津 祐泰(かわづ すけやす)は、平安時代末期の武将であり、伊豆国の豪族。河津三郎。工藤氏の流れをくむ伊東祐親(河津祐親)の子(長男)であり、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成・時致の父[1]。祐通とも。
概略
[編集]父の伊東祐親から河津荘を相続したため、河津祐泰を名乗った。同時期、工藤一族内では伊豆国伊東荘を巡る所領争いが起きていた。親族の工藤祐経が相続した伊東荘だったが、これに不満を抱いた伊東祐親は祐経の上洛中に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせていた娘の万劫御前とも離縁させてしまった。祐経は深く恨み、郎党に伊東祐親の暗殺を命じた。安元2年(1176年)10月、伊豆の奥野の狩場にいた祐親、祐泰親子を刺客が襲撃し、矢を射かけた。祐親は無事だったものの、近くにいた祐泰は矢に当たり落命した[2]。享年31(『曽我物語』による)。祐泰の妻(満功御前。横山時重の娘)は5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)2人を連れて曾我祐信と再婚した。
建久4年(1193年)5月28日、2人の兄弟は富士の巻狩りで父の仇である工藤祐経を討った後、討ち死にした。この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られる事になる。
祐泰の討たれた5日後に生まれた末子は、祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していた。曾我兄弟の仇討ちの後、兄に連座して鎌倉へ呼び出され、7月2日に甘縄で自害している。