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河津祐泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
河津 祐泰
時代 平安時代末期
生誕 久安2年 (1146年
死没 安元年2年(1176年)10月
別名 祐通、三郎
墓所 静岡県伊東市 東林寺
氏族 伊東氏河津氏
父母 伊東祐親
兄弟 祐泰伊東祐清北条時政前室、三浦義澄室、万劫御前工藤祐経前室、土肥遠平室)、八重姫、ほか
満功御前横山時重娘、工藤茂光の孫)
祐成時致、律師
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河津祐泰の墓(静岡県伊東市馬場町)

河津 祐泰(かわづ すけやす)は、平安時代末期の武将であり、伊豆国豪族河津三郎工藤氏の流れをくむ伊東祐親(河津祐親)の子(長男)であり、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成時致の父[1]祐通とも。

概略

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父の伊東祐親から河津荘を相続したため、河津祐泰を名乗った。同時期、工藤一族内では伊豆国伊東荘を巡る所領争いが起きていた。親族の工藤祐経が相続した伊東荘だったが、これに不満を抱いた伊東祐親は祐経の上洛中に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせていた娘の万劫御前とも離縁させてしまった。祐経は深く恨み、郎党に伊東祐親の暗殺を命じた。安元2年(1176年)10月、伊豆の奥野の狩場にいた祐親、祐泰親子を刺客が襲撃し、矢を射かけた。祐親は無事だったものの、近くにいた祐泰は矢に当たり落命した[2]。享年31(『曽我物語』による)。祐泰の妻(満功御前横山時重の娘)は5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)2人を連れて曾我祐信と再婚した。

建久4年(1193年)5月28日、2人の兄弟は富士の巻狩りで父の仇である工藤祐経を討った後、討ち死にした。この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られる事になる。

祐泰の討たれた5日後に生まれた末子は、祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していた。曾我兄弟の仇討ちの後、兄に連座して鎌倉へ呼び出され、7月2日に甘縄で自害している。

出典

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  1. ^ 「河津祐泰」『大辞泉』小学館、1995年。 
  2. ^ 『曽我物語 岩波古典文学大系88』岩波書店、1966年。 

関連項目

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