河崎蘭香
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河崎蘭香 | |
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生誕 |
河崎(神山) 菊(キク) 1882年11月9日 愛媛県西宇和郡郷村(現八幡浜市郷) |
死没 |
1918年3月12日(35歳没) 東京都 |
墓地 | 八幡浜市郷 圓満寺蔵福寺 |
国籍 | 日本 |
教育 | 菊池芳文の画塾(京都府)、寺崎広業の塾(東京都) |
著名な実績 | 美人画 |
代表作 | 「花のたより」 |
河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11月9日 - 1918年(大正7年)3月12日)は、西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)生まれの日本画家。明治から大正にかけての女性日本画家。上村松園と並び称されることもあたったが、若くして他界した。
生涯
[編集]名を菊といい、実父は医師である神山謙斎であるが、明治8年(1890)郷村に開校した石堂小学校の校長河崎奨(たすく)郁(かおる)夫妻の養女となる。
小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業すると、今度は画家を志し、明治32年(1899)には京都に移り住み菊池芳文(きくちほうぶん)の門下生となり、四条派の画法を学ぶ。
明治34年(1901)20歳の蘭香は、八幡浜栗野浦の八坂神社本殿の天井を飾る絵を30枚受け持ち、梶谷南海や他の郷土の画家とともに描き奉納。
明治35年(1902)11月に再び上京、東京美術学校の教授であった狩野派系の寺崎廣業(てらさきこうぎょう)の門下生となり、特に風俗・人物画の研鑽を重ね、絵画共進会にも入会。
明治40年代からは女性雑誌「女学世界」「婦女界」「婦人画報」などの口絵や表紙絵を担当し、精力的に活動して女性の人気をさらった。
私生活では、八幡浜市長を勤めた菊池清治の紹介で金森徳次郎と恋仲になるが、結婚には至らなかった。
1917年(大正6年)2月、養父が死去。体調を崩し箱根湯本で養生したが、翌年2月東京帝国大学病院青山内科に入院、3月12日午前3時頃死去。
最近の出来事
[編集]出典
[編集]- ^ “女流画家・河崎蘭香をしのぶ”. 愛媛新聞. (2017年3月8日)
- ^ “八幡浜・河崎蘭香没後100年で劇上演 郷土ゆかり 画家の生涯 市民ら13人熱演 観客魅了”. 愛媛新聞. (2018年10月7日)
参考文献
[編集]- 「美人画は語る」展実行委員会2017 『えひめの閨秀画家 河崎蘭香』 「美人画は語る」展実行委員会、2017年
- 青幻舎プロモーション 『培広庵コレクション 美人画の四季』、2017年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 歴史上の人物・河崎蘭香 八幡浜・大洲地区広域市町村圏組合
- 円山四条派の流れを汲む伊予の画人 UAG美術家研究所