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沢本理吉郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

沢本 理吉郎(澤本、さわもと りきちろう、1898年明治31年)2月3日[1][2] - 1967年昭和42年)8月16日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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千葉県出身[1][2][3]。呉服商・沢本夘之吉の息子として生まれる[1]陸軍中央幼年学校予科中央幼年学校本科を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業[1][2][3]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第18連隊付となる[1][3]。1919年(大正8年)4月から同年11月までシベリア出兵に出征した[1]。1921年(大正10年)11月、陸軍砲工学校高等科(27期)を卒業[1]。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を優等で卒業し野戦重砲兵第8連隊中隊長に就任[1][2][3]

1929年(昭和4年)1月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、ポーランドソビエト連邦在勤、陸軍野戦砲兵学校教官、陸軍省整備局課員などを務め、 1937年(昭和12年)8月、砲兵中佐に進級[1]。同年10月、侍従武官に任じられた[1][3]

1939年(昭和14年)3月、砲兵大佐に昇進し、1941年(昭和16年)9月、独立山砲兵第10連隊長に発令され日中戦争に出征した[1][2][3]砲兵監部員を経て、1943年(昭和18年)3月、陸軍少将に進み支那派遣軍司令部付となる[1][2][3]。同年11月、緬甸方面軍司令部付(ビルマ軍事顧問)となり、1945年(昭和20年)2月、第33軍参謀長に転じ、ビルマの戦いの邁作戦(シッタン作戦)を遂行中に終戦を迎えた[1][2][3]1947年(昭和22年)8月に復員した[1]

1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[4]

親族

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  • 義兄 村上尚武(陸軍大佐)[1]

栄典

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外国勲章佩用允許

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』359頁では昭和41年。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、76頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』359頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』416-417頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」211頁。
  5. ^ 阿部勝雄外三十二名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113477700 

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。