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沈美子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シム・ミジャ

沈 美子[1]
심 미자
生誕 1924年2月24日[1]
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮黄海道延白郡[1]
死没 2008年2月27日(84歳没)
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沈 美子朝鮮語: 심 미자、シム・ミジャ、1924年2月24日 - 2008年2月27日)は、元慰安婦人権擁護者

経歴

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日本統治時代の朝鮮黄海道延白郡(現在の朝鮮民主主義人民共和国黄海南道延安郡)生まれ[1]1940年3月、些細なことを咎められて警察署に連行され、拷問を受けた[1]。はじめ福岡、2年後からは神戸・大阪の慰安所に連れて行かれ、軍人相手の性行為を強要された[1]。慰安所では梅毒に罹患させられ、一度も金銭軍票を与えられなかった[1]1945年日本の敗戦後、工場に勤務し、1952年頃帰国した[1]

1990年、月刊誌のインタビューの中で元慰安婦であることを公表した[2]1991年10月、韓国文化放送(MBC)ラジオで、従軍慰安婦問題について日本軍の関与はなかったと日本国政府が主張しているとのニュースを聴き、すぐに放送局電話で抗議した[2][3]。同年12月、他の元慰安婦らとともに日本国政府を相手に補償を求めて提訴(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件)。請求は棄却されたものの、前述の慰安所での強要の状態などは事実認定され、2004年11月の最高裁判所判決で確定した。

当初から韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協、現在の日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯)で活動してきたが、1994年5月挺対協から離れた[2]2004年1月、元慰安婦被害者33人による「世界平和ムクゲの会」の代表として、挺対協について被害者支援の名目で自分たちの利益を図っている等と批判する声明を発表した[4]。同年3月13日、沈ら元慰安婦13人は、挺対協とナヌムの家による募金活動や水曜集会を禁止することを求め、仮処分を申し立てたが、棄却された[5]

そのため、沈美子は挺対協の慰安婦運動からは排除されており、挺対協は沈美子は元慰安婦ではないと主張している[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件 東京高等裁判所判決” (PDF). 女たちの戦争と平和資料館. p. 40 (2003年7月22日). 2020年5月19日閲覧。。「控訴人と被控訴人との間において争いのない事実」として東京高裁に認定されている。本裁判の争点は補償請求であり、公訴時効が成立していることから日本政府は控訴人の経歴内容について異議申し立てをしなかった。
  2. ^ a b c 【コラム】慰安婦支援団体「正義連」の堕落は避けられなかったのか”. 中央日報 (2020年5月20日). 2020年5月21日閲覧。
  3. ^ 韓国の被害者の現状 沈美子(シン・ミジャ)無窮花(ムクゲ)親睦会 韓国”. 第4回「慰安婦」問題に関するラウンドテーブル報告書『「慰安婦」被害とは?‐「慰安婦」被害者のいま‐』. 財団法人女性のためのアジア平和国民基金 (2013年10月). 2020年5月21日閲覧。
  4. ^ 2004年慰安婦被害者33人「挺身隊対策協議会、私たちを物乞いに売った悪党」”. 中央日報 (2020年5月18日). 2020年5月19日閲覧。
  5. ^ 赤石晋一郎. “韓国の元慰安婦リーダーから届いた手紙「被害者たちは食い物にされている」 韓国人も知らない慰安婦問題の“不都合な真実””. 週刊文春2019年1月3・10日号. 2020年5月21日閲覧。
  6. ^ 赤石晋一郎. “慰安婦支援団体代表が韓国選挙に与党から出馬へ 突然の政界転身の理由 (4/4)”. 文春オンライン. 文藝春秋. 2020年5月10日閲覧。