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江田幸一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江田 幸一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区
生年月日 (1947-10-31) 1947年10月31日(77歳)
身長
体重
168 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1972年 ドラフト4位
初出場 1973年6月5日
最終出場 1979年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

江田 幸一(えだ こういち、1947年10月31日 - )は、埼玉県[1]浦和市(現・さいたま市浦和区)出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

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上尾高校では3年次の1965年夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、大宮高に敗退して甲子園出場はならなかった。高校同期に会田照夫がいる。卒業後の1966年東京ガスへ入社し、1969年の都市対抗では鷺宮製作所に補強されて出場。初戦となった2回戦の電電四国戦で好リリーフして勝利投手となるが、この勝利が鷺宮の都市対抗初勝利でもあった。同年のドラフト4位で東映フライヤーズに入団し[1]、「日拓ホームフライヤーズ」となった1年目の1973年から中継ぎとして起用される。7月11日ロッテ戦(神宮)で初勝利を挙げ、「日本ハムファイターズ」となった2年目の1974年には4月19日南海戦(大阪)で初セーブをマーク。1975年1976年の2年間は一軍出場ゼロであったが、168cmと小柄ながら体の使い方のうまさに同僚の高橋直樹も脱帽。アンダースローからのシュートシンカーなど多彩な変化球、打者の手元で微妙に変化するクセ球を武器に、1977年にはショート・リリーフに活路を見出だす。同年の目標はまず一軍入りで、結果が出せなかった場合は引退するつもりであったが、前期だけで5勝を挙げる。6月22日のロッテ戦(宮城)では先発の佐伯和司が5回に4点目を取られ、0-4とリードされたところからリリーフ。江田は「どうせ負け試合か…」と気軽に投げていると、日本ハムナインが反撃に移り、9回の土壇場に永淵洋三田中由郎から右翼ポール際に逆転の5号2ラン本塁打を放つ。5勝目は思わぬ形で転がり込み、江田は「ツキも運も実力のうちですよ」とポーカーフェイスで惚けていたが、本心は大喜びであった。「こうなったら10勝でも狙いましょうか」とも語り、自身の調子が下り気味であったのと高橋一三野村収らが復調したこともあって、出番が少なくなっていた江田にとってはこれが40日ぶりの勝利であった。後期は1勝に終わったが、9月1日クラウン戦(平和台)で最後の勝利を挙げた。同年には自己最多となる40試合登板で6勝をマークするが、長女・芳子が誕生した1979年限りで現役を引退[1]

引退後は1980年の1年だけ巨人打撃投手を務めた。

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1973 日拓
日本ハム
14 0 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 112 26.2 28 5 11 0 0 11 0 0 16 16 5.33 1.46
1974 16 0 0 0 0 0 0 1 -- ---- 69 17.0 19 2 1 0 1 11 0 0 9 8 4.24 1.18
1977 40 0 0 0 0 6 3 0 -- .667 369 91.1 84 11 27 2 1 42 1 0 36 31 3.07 1.22
1978 29 0 0 0 0 0 3 1 -- .000 259 57.1 77 8 21 0 2 14 0 0 44 41 6.47 1.71
1979 10 0 0 0 0 0 2 0 -- .000 90 20.1 24 3 4 0 2 4 1 0 14 10 4.50 1.38
通算:5年 109 0 0 0 0 7 8 2 -- .467 899 212.2 232 29 64 2 6 82 2 0 119 106 4.48 1.39
  • 日拓(日拓ホームフライヤーズ)は、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

記録

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背番号

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  • 41 (1973年 - 1979年)
  • 95 (1980年)

脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、89ページ

関連項目

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外部リンク

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