江洪杰
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江洪杰 | |
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『中華民国維新政府概史』(1940) | |
プロフィール | |
出生: | 1876年 |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清安徽省寧国府旌徳県 |
職業: | 外交官・政治家・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 江洪傑 |
簡体字: | 江洪杰 |
拼音: | Jiāng Hóngjié |
ラテン字: | Chiang Hung-chieh |
和名表記: | こう こうけつ |
発音転記: | ジアン ホンジエ |
江 洪杰(こう こうけつ)は、中華民国の外交官・政治家・実業家。中華民国維新政府の要人。字は子因。
事績
[編集]1897年(光緒23年)、山東省の法律学校で教官をつとめる。1899年、同省の県長に転じた。
1907年(光緒33年)、江洪杰は副領事として横浜に赴任する。1909年(宣統元年・明治42年)、明治大学法科を卒業、法学士の称号を取得した[1]。1912年(民国元年)、外交総長秘書に任ぜられる。1915年(民国4年)、駐日公使館一等書記官に転じた。1930年(民国19年)4月時点で公使館参事官の地位にあったほか[2]、1921年、1922年、1925年、1930年、1931年に、それぞれ臨時代理公使をつとめた。1931年(民国20年)、駐日公使に昇格、後に駐日代理大使にもなっている[3]。
1938年(民国27年)3月、梁鴻志が創設した中華民国維新政府に江洪杰も参加する。同年7月、梁が交通部長の兼任を解除されると、江洪杰が後任の交通部長となった。以後、1940年(民国29年)3月に汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府と合流するまで、その地位にあった。
南京国民政府成立後は、日中合弁の中華輸船株式会社で社長となった[4]。
戦後、江洪杰は日本でGHQに逮捕され、中国に送還された後、再び日本に戻ったという[5]。
注
[編集]参考文献
[編集]- Who's Who in China 5th ed.. The China Weekly Review (Shanghai). (1936)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 明治大学編『明治大学一覧 付・卒業生年度別 昭和十二年十一月』明治大学、1937年。
中華民国維新政府
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