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江崎邦助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江崎邦助(えざき くにすけ、文久元年(1861年) - 1886年明治19年)6月23日)は、明治時代の警察官である。

生涯

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「江崎邦助巡査夫妻殉職之地」碑(田原市加治町、2018年1月)

1861年(文久元年)に、志摩国答志郡鳥羽村(現・三重県鳥羽市)で江崎又右衛門の子として生まれる。

明治16年(1883年)4月[1][注釈 1]愛知県警察に採用される。同19年(1886年)に、上司の紹介で平岩じうと結婚。それから間もなく、豊橋警察署田原分署(現・田原警察署)への勤務を命じられる。この頃、大阪から流行したコレラが、6月に入ると愛知県に広がり、多くの患者を出していた[注釈 2]。邦助の新任地である渥美郡も、いつ感染が広がってもおかしくなかった。

6月15日、邦助は分署長の命で管内を巡察していた折、堀切村(現・田原市堀切町)でコレラの疑いがある患者がいるとの情報を聞きつけ、医師を伴って現地に向かった。診断の結果、患者が真性コレラと判明し、速やかに患者の隔離や近隣の消毒に取り掛かる[注釈 3]必要があった。しかし、伝染病に対する無知・無理解や恐怖心、「警察は、コレラ患者を生きたまま棺桶に入れて焼き殺す」「コレラと疑わしい者は毒殺される」「患者に処方された薬をカエルに与えたら、死んだ」などといった流言飛語から、患者とその親族・村人は激しく抵抗し、投石竹槍で邦助たちを威嚇した[注釈 4]。邦助は、権力を振りかざすことも法を強制することもせず説得に精魂を傾け、ようやく村人の理解を得る事ができた。そして医師とともに、患者の隔離や住民の健康診断、村人のみならず通行人に至るまでの徹底した消毒作業など、衛生対策に努めた。

対策に目途がつくと、邦助は詳細を署に報告するため、6月22日に堀切村を出発した[注釈 5]。しかし午前11時頃[5][6]、若見村(現・田原市若見町)に差し掛かったところで吐き気と激しいのどの渇きに見舞われ、歩行も困難になる。人力車を呼んで田原へと急いだが、加治村(現・田原市加治町)まで着いた頃には、人力車に乗っていることもままならなくなった。

蔵王霊園にある江崎邦助・じう夫妻の墓(田原市田原町、2017年12月)

人力車を降りた邦助は、車夫に署や役場への連絡を依頼すると近くの林に身を置いた。やがて役場の職員や署の同僚、妻・じうが現場に到着したが、コレラの感染を確信した邦助は『私に近づくと、コレラに感染する。』と近寄らせなかった。医師の診断で真性コレラであることが確定し、田原へ移送して治療する旨が伝えられるが『もう自分の助かる見込みはない。いま田原の市街地に入れば、コレラを大勢の人に感染させる恐れがある。また、コレラへの恐怖心から無用の混乱を起こしてしまう。』と受け入れず、同僚に防疫業務の復命を依頼した。

やむなく近くに掘立小屋が建てられ、邦助が運び入れられると、じうは人々を説得し帰らせた。邦助は彼女の看病を受けるも、翌23日午後2時[5][6]に25歳の生涯を閉じた。じうも看病のなかでコレラに感染し同月25日に発症、翌26日午後5時[7]に邦助を追うように19歳の生涯を閉じた。

7月24日、蔵王山麓で江崎夫妻の葬儀が神式で営まれた。三宅康寧が斎主を務め、警察官や多くの住民が参列している[8]。二人の墓は、蔵王山麓の蔵王霊園(田原市田原町)にある。

顕彰

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邦助の功績は、その後も地元の多くの人たちに語り継がれている。

邦助とじうが病に倒れた小屋のあった加治町稲場地区には、「江崎邦助巡査夫妻殉職之地」の碑が建てられた。命日の6月23日には、墓(前述)とともに田原警察署の署長や幹部が慰霊のため訪れている[9]。また地元では、5年ごとに追悼法要が営まれている[10][11]

稲場地区を校区に含む田原市立衣笠小学校では、毎年11月の学芸会で6年生が江崎巡査物語を演じている[12]

注釈

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  1. ^ 『田原町史』下巻では、明治17年(1884年)6月としている(p.894)。
  2. ^ 愛知県内では、明治16年6月-8月の3ヶ月で患者数は614人、うち死亡者422人に及ぶほど猛威を振るった。最終的に一年間で患者数1143人、その内862人が命を落としている[2]
  3. ^ 当時、衛生行政は警察とともに内務省が担当しており、防疫業務も警察官の任務の一つだった。
  4. ^ 同様のケースは、7年前の明治12年(1879年)にも起きている。当時の新聞記事によれば、同年6月に知多郡鴻崎村(現・南知多町)の日間賀島でコレラ患者が発生した際、患者を避病院へ搬送するため警察や医師が護送するのを、「打ち殺される」「生き血を搾り取られる」と流言する者がいて、住民が巡査を襲撃している。巡査がサーベルで住民1人の尻を切りつけると、住民は逃げだしたという[3]
  5. ^ 当時の堀切村は電話が開通していなかった(電信線が開設されたのは、明治33年(1900年))[4]

出典

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  1. ^ 愛知県警察史 1971, p. 775.
  2. ^ 愛知県史 2017, p. 668-669.
  3. ^ 愛知県史 2017, p. 666.
  4. ^ 田原町史 1978, p. 896.
  5. ^ a b 愛知県警察史 1971, p. 779.
  6. ^ a b 田原町史 1978, p. 898.
  7. ^ 田原町史 1978, p. 899.
  8. ^ 田原町史 1978, p. 897.
  9. ^ 田原で江崎巡査夫妻の追悼慰霊祭”. 東愛知新聞 (2017年6月24日). 2018年1月28日閲覧。
  10. ^ 「コレラまん延防ぎ殉職 田原の巡査 きょう百三十回忌法要」、中日新聞2015年6月23日付朝刊、29頁
  11. ^ 「巡査に敬意、130回忌 田原分署の江崎さん コレラ拡大、体張り防ぎ落命」、朝日新聞2015年6月24日付朝刊(名古屋本社版)、27頁
  12. ^ 「125年前、田原のコレラ拡大防ぎ殉職 巡査の志、受け継ぐ 演劇・絵画に」、朝日新聞2011年5月23日付夕刊(名古屋本社版)、6頁

参考文献

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  • 愛知県警察本部編 編『愛知県警察史』 第1巻、愛知県警察本部、1971年。全国書誌番号:72009208 
  • 田原町文化財保護審議会, 田原町史編さん委員会編 編『田原町史』 下巻、田原町, 田原町教育委員会、1978年。全国書誌番号:78026350 
  • 愛知県史編さん委員会編 編『愛知県史』 通史編 6 (近代 1)、愛知県、2017年。全国書誌番号:22876673 
  • 加藤茂孝「人類と感染症との闘い -「得体の知れないものへの怯え」から「知れて安心」へ -(続) 第7回「コレラ」-激しい脱水症状」(PDF)『モダンメディア』第62巻第6号、栄研化学株式会社、2016年6月、31-42頁、ISSN 002680542018年1月28日閲覧 

関連項目

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同様にコレラに感染し死亡した警察官

脚注

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  1. ^ 増田神社夏祭り唐津観光協会、2018年3月12日閲覧。
  2. ^ 増田神社例大祭佐賀県警、2018年3月17日閲覧。
  3. ^ 彼の死--増田巡査の神格化CiNii、2018年3月17日閲覧。
  4. ^ 広報かみさと2015年8月号(No.555)p10、2018年3月12日閲覧。

外部リンク

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