永見俊徳
永見 俊徳 | |
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生誕 |
1888年2月19日 日本 東京府 |
死没 | 1971年3月2日(83歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1909 - 1943 |
最終階級 | 陸軍中将 |
永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 1971年3月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]永見松太郎陸軍大尉の長男として東京で生まれる。小田原中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業。
1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付仰付(南京駐在)を経て、1925年(大正14年)3月、歩兵少佐に昇進。1926年(大正15年)5月、参謀本部員となり、馮玉祥顧問、参謀本部付仰付(漢口駐在)を歴任し、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進級。
1929年(昭和4年)8月、歩兵第59連隊付となり、陸大専攻学生、近衛歩兵第3連隊付、陸軍歩兵学校教官を歴任。1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍参謀に発令され第一次上海事変に出征。同年12月、歩兵大佐に昇進し歩兵第25連隊長に就任。
1935年(昭和10年)3月、関東軍司令部付(満州国軍事顧問)となり、支那駐屯軍参謀長、豊予要塞司令官を歴任。1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し西部防衛参謀長に発令された。1938年(昭和13年)7月、第27歩兵団長に転じ日中戦争に出征。漢口作戦などに参戦。1939年(昭和14年)8月、留守第11師団長に異動し帰国。同年10月、陸軍中将に進んだ。1940年(昭和15年)8月、第55師団長に親補され、同年12月、予備役に編入となった。
1941年(昭和16年)10月に召集され、留守第55師団長に就任。1943年(昭和18年)6月、召集解除となった。同年12月、華北行政学院副院長に就任した。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
[編集]- 1910年(明治43年)2月21日 - 正八位[2]
- 1913年(大正2年)4月21日 - 従七位[3]
- 1918年(大正7年)5月20日 - 正七位[4]
- 1923年(大正12年)7月31日 - 従六位[5]
- 1928年(昭和3年)9月1日 - 正六位[6]
- 1937年(昭和12年)9月1日 - 正五位[7]