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永田政純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
永田政純
時代 江戸時代中期
生誕 寛文11年7月18日1671年8月22日
死没 宝暦4年5月8日1754年6月28日
別名 通称:四郎三郎→右衛門八→瀬兵衛
墓所 海潮寺山口県萩市北古萩町)
主君 毛利吉広吉元宗広
長州藩
氏族 宇多源氏佐々木氏高島氏庶流永田氏
父母 父:永田政納、母:山崎道察の娘
兄弟 政矩万槌政純李家正勝、女
正室:山中賢光の娘
継室:李家宗椿の娘
政古
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永田 政純(ながた まさずみ)は、江戸時代武士歴史家毛利氏家臣で長州藩士。禄高は143石。長州藩主・毛利吉元の命を受けて『閥閲録』の編纂を行い、『新裁軍記』や『江氏家譜』等の編集も行った。

生涯

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寛文11年(1671年7月18日長州藩藩医永田政納の三男として、長門国に生まれる。母は陸奥二本松藩主・丹羽光重の儒臣であった山崎道察の娘で、長州藩士・岩佐圭庵の姪。

元禄10年(1697年2月1日、新規召抱えで右筆役として手廻組に加えられ、扶持方2人分・切米2石4斗を給される。元禄12年(1699年2月15日には扶持方5人分・銀250目(高直し43石)に昇給。

元禄13年(1700年)に江戸御留守公儀向御用を務め、宝永元年(1704年)には江戸御勤方を兼務。宝永3年(1706年7月29日に江戸御用所右筆に任じられた。

正徳4年(1714年12月1日に江戸矢倉方の職も兼任し、享保元年(1716年)に江戸御用所役に昇進した。一方で、享保3年(1718年8月6日には御用所・矢倉方の職を辞し、同年8月14日に手廻組から大組に入り、8月16日に御什書御用掛として御内用掛(後の密用方)の責任者となった。

享保5年(1720年6月16日、藩主・毛利吉元の命を受け、毛利氏の家譜及び家臣の家に伝来した古文書・家系の調査事業を開始した。翌享保6年(1721年3月4日には江戸当職手元役に任じられ、銀1貫200目(高直し60石)を加増され、知行高103石となる。享保9年(1724年)、徳田良方と共に『江氏家譜』の撰修に着手し、享保10年(1725年)に寺社証文を録上。そして享保11年(1726年)に『閥閲録』を完成させ、同年12月15日に銀3枚を拝領した。

元文3年(1738年6月16日毛利元就に関する編年体歴史書である『御軍記』(後の『新裁軍記』)編纂に着手。政純が中心となって、他に山県周南小倉鹿門小田村鄜山山根華陽らが参加し、寛保元年(1741年)5月までに元就期の大部分[1]の記述を完成させた。寛保2年(1742年)7月には『江氏家譜』が完成し、山県周南、徳田良方、安部和貞が校訂を行った。

元文5年(1740年7月18日、政純の親族・友人が政純の古稀を祝った。延享4年(1747年)1月、銀800目(高直し40石)を加増され、知行高が143石となる。

宝暦3年(1753年)7月、毛利氏の『御系図御家譜引用書』が完成。同年10月28日隠居を許され、銀子10枚を拝領し、翌年の宝暦4年(1754年5月8日に病死。享年84。萩の海潮寺に葬られた。

政純の人となりについて、山県周南は「重厚慎密」、小田村鄜山は「謹厚貞良」と評し、安部和貞は政純の古稀の祝文において「性閑雅にして」と評した。山根華陽は墓碑銘に「君博聞強記、有好古癖、最精国史」と記し、歴史学者としての政純の人物像を伝えている。

脚注

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  1. ^ 永正14年(1517年)10月の有田中井手の戦いから永禄6年(1563年)末の出雲白鹿城攻めまで。

参考文献

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