永川英植
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市鶴見区 |
生年月日 | 1956年6月23日 |
没年月日 | 1991年7月15日(35歳没) |
身長 体重 |
190 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1974年 ドラフト1位 |
初出場 | 1977年7月10日 |
最終出場 | 1977年7月10日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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永川 英植(ながかわ えいしょく、1956年6月23日 - 1991年7月15日)は、神奈川県横浜市鶴見区出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。
来歴・人物
[編集]横浜高ではエースとして活躍。1972年秋季関東大会に出場、準決勝では木更津中央高の古屋英夫らと投げ合い快勝。決勝に進出するが作新学院の江川卓に完封を喫する。1973年春の選抜では決勝に進み、広島商の佃正樹と投げ合う。延長11回に冨田毅(リッカー)が決勝2点本塁打、選抜初優勝を飾る[1]。同年夏は神奈川大会準々決勝で長内孝のいた桐蔭学園に敗退。他のチームメートに一塁手の西山茂、中堅手の長崎誠(リッカー)がいた。同年の秋季関東大会でも決勝に進むが、銚子商の土屋正勝に完封負け。しかし翌1974年の春の選抜への連続出場を決めた。選抜では2回戦(初戦)で高知高の高橋修二と互いに無失点で投げ合うが、延長12回に杉村繁に適時打を浴びサヨナラ負けを喫する[1]。同年夏の神奈川大会は決勝で原辰徳らのいた東海大相模高に敗退、夏の選手権には縁がなかった。
1974年のドラフト会議でヤクルトスワローズに1位指名される。ドラフト指名当時は定岡正二(鹿児島実)、土屋正勝(銚子商)、工藤一彦(土浦日大)とともに「高校四天王」と呼ばれた。また土屋・工藤・永川の三人は「関東三羽烏」とも呼ばれた。しかし、プロ入り後は度重なるフォーム矯正や肝炎による体調不良により本来の実力を発揮できず、プロでの登板はわずか1試合にとどまり、1980年4月25日に肝炎のため任意引退[2]。
引退後は横浜市鶴見区にて家業の焼肉店を継いでいたが、1991年7月15日午後4時50分、肝臓癌のため神奈川県横浜市保土ケ谷区の病院で死亡(享年35)[3]。
武器はストレート、カーブ。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1977 | ヤクルト | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 | 2.00 |
通算:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 | 2.00 |
記録
[編集]背番号
[編集]- 24(1975年 - 1979年)
- 44(1980年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 永川英植 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)