永井隆幸
永井 隆幸(ながい たかゆき、1972年7月13日 - )は、Jリーグ・サガン鳥栖のチームスタッフ。事実上の前身である鳥栖フューチャーズ時代から継続して所属している唯一のスタッフとして知られる。
略歴・人物
[編集]佐賀県多久市出身。小学校のころからサッカーを始め、小城高校時代には県選抜チームにも選出された。進学した東洋大学でもサッカーを続け、東京都大学サッカー連盟の総務部長を3年間務めた。
1995年に鳥栖フューチャーズの運営会社「佐賀スポーツクラブ」に入社。マネージャーとしてチームを支える。97年に会社が倒産したときはボランティアで選手のケアを続けた。新チーム「サガン鳥栖」が結成されると、引き続き運営スタッフの一員として参加した。
1997年2月4日に結成したばかりのサガン鳥栖にはチーム名以外なにも決まっておらず、契約未更改の8人の選手以外は、練習場やボール、用具どころか事務所さえなくスタッフも誰もいなかったが、3月8日開幕のナビスコカップに参加することだけは決定していた。そのためJリーグから派遣された熊地洋二(後、Jリーグ常務理事)、元鳥栖フューチャーズ運営担当の加藤桂三(後、JFL専務理事)、そして永井の3人がわずか1ヶ月間でチームの形を創り上げた。サガン鳥栖の創成期にはU-12監督や運営、強化担当など一人で何役もこなしたほか、人数合わせのため紅白戦などの練習にも参加。チーム初年度の97年には一時選手契約も結んでおり[注 1]、ヴェルディ川崎とのプレシーズンマッチや、チーム結成10周年を記念して開催されたOB戦などに加え、公式戦では天皇杯に出場したこともある。このように体力面には定評があり、佐賀県で毎年行われている郡市対抗県内一周駅伝大会に多久市チームの一員として参加。チームのPRを兼ね、ユニフォーム姿で健脚を披露した[1]。
2003年から強化部長[2](ただし強化部に他のスタッフはおらず、事実上一人で強化担当を担ってきた[3])。2006年より運営会社であるサガンドリームスの執行役員に就任[2]。長年チームのJ1昇格とJ1定着を支えてきたが、2016年5月31日に行われたサポーターズミーティングで強化部長の辞任(後任の強化担当に竹元義幸ら。強化部長は空席)と営業部への異動が発表された[3]。この異動に関して西日本新聞では成績低迷に伴う「事実上の解任」と報じた[4]が、チームは否定している[3]。なお、2018年5月の時点で強化部長に復帰していることが明らかになっており[5]、同年8月にはコーチに就任した[6]。
参考資料
[編集]脚注
[編集]注記
[編集]- ^ 97年11月から98年1月1日まで。背番号は25。
出典
[編集]- ^ “サガンの永井強化部長 県内一周駅伝出場”. 佐賀新聞. (2010年2月16日) 2016年6月16日閲覧。
- ^ a b “たいせつな本 サガン鳥栖強化部長・永井隆幸さん”. 朝日新聞佐賀版. (2013年1月22日) 2016年6月16日閲覧。
- ^ a b c “強化部増員を報告 サガン・サポミ”. 佐賀新聞. (2016年5月31日) 2016年6月16日閲覧。
- ^ 2016年5月5日スポーツ面
- ^ “J1鳥栖・竹原社長「監督解任より選手補強」 試合前にサポーターと2度目の対話”. 西日本新聞. (2018年5月7日) 2018年5月10日閲覧。
- ^ 『登録役員追加・変更・抹消のお知らせ』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2018年8月24日 。2018年11月8日閲覧。