永井照雄
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永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29日[1] - 1942年(昭和17年)1月4日[2])は、朝鮮総督府官僚。
経歴
[編集]広島県豊田郡吉名村(現在の竹原市)出身。1917年(大正6年)に鹿児島高等農林学校を卒業し、朝鮮総督府営林廠に勤務した。1923年(大正12年)、京都帝国大学経済学部を卒業し、朝鮮総督府属となる。1925年(大正14年)に高等試験行政科に合格。咸鏡北道学務課長、同視学官、慶尚南道地方課長、同産業課長などを歴任した。1932年(昭和7年)、木浦府尹に就任し、1933年(昭和8年)に仁川府尹に転じた。在任中の1941年(昭和16年)12月20日に仁川神社で行われた戦捷奉告祭に風邪で40度の高熱がありながら参加、帰宅後に急性肺炎を併発、1942年(昭和17年)1月4日に死去、53歳[2][3][4]。
脚注
[編集]- ^ 輓近大日本拓殖史 1934, p. 492.
- ^ a b 「故朝鮮総督府府尹永井照雄位階追陞ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11115180100
- ^ 「永井仁川府尹」『朝鮮新聞』朝鮮新聞社、1942年1月6日、夕刊、2面。2024年3月30日閲覧。
- ^ 「永井仁川府尹」『京城日報』京城日報社、1942年1月6日、朝刊、3面。2024年3月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年。