永井作次
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永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年11月10日[1]) - 1930年(昭和5年)6月5日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、鹿児島座社長、九州電力(旧鹿児島電気)社長。従七位。
略歴
[編集]1894年(明治27年)、和仏法律学校(現・法政大学)邦語法律科を卒業する。
鹿児島地方裁判所検事・鹿児島区裁判所検事をつとめ、退官後弁護士となる。
鹿児島座(1912年(大正1年)完成、1913年(大正2年)1月1日開場)の社長に就任する。九州で初めて専属の少女歌舞伎団「若葉会」を擁し、少女歌舞伎を常打ちした他、東京から一流の芸人を招いて、歌舞伎・新派・浪曲・義太夫・講談・落語・奇術などの興行を行った。
鹿児島市会議員をへて、1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する
(以後2回当選、立憲政友会)。
1927年(昭和2年)に、後に合併を経て九州電力となる鹿児島電気社長に就任。
1930年(昭和5年)6月5日に死去、享年60。
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、34頁。