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水野勝貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
水野勝貞
水野勝貞
時代 江戸時代前期
生誕 寛永2年6月28日1625年8月1日
死没 寛文2年10月29日1662年12月9日
改名 伊織(幼名)、勝貞
別名 藤十郎(通称)、勝春、勝秀
戒名 源光院殿前日刕太守傑山宗英大居士
墓所 広島県福山市若松町の水野家菩提寺の曹洞宗賢忠寺
官位 従四位下日向守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
備後福山藩
氏族 水野氏
父母 父:水野勝俊、母:不詳
兄弟 勝貞勝清園基福継室ら
正室:酒井忠勝の養女
側室:瀬尾氏
鶴、与曽、勝種
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水野 勝貞(みずの かつさだ)は、備後国福山藩の第3代藩主。水野宗家3代。第2代藩主・水野勝俊の次男。

経歴

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水野勝貞公墓所 (福山市若松町)

備後国で、第2代藩主・勝俊の嫡男として生まれる。14歳のとき島原の乱に参戦し、帰陣後の寛永16年(1639年)に徳川家光御目見する。翌17年(1640年)、従五位下に任官し、備後守を名乗る。承応4年(1655年)、勝俊の病死により31歳で家督を継ぐ。同年(改元され明暦元年)徳川家綱に御目見して従四位下に任官、日向守と改める。祖父・勝成の日向守に対し、「後日向守」とも呼ばれる。

勝成、勝俊に続き、主に領内の寺院を保護し、福山城下の円光寺を深津郡草戸村(現在の福山市草戸町)の古刹・常福寺に合併させ、寺名を明王院と改めた。文芸の興隆にも努め、京都から俳人野々口立圃を呼び、多くの門人を輩出させたり、城下の寺院でたびたび芝居を催したという。また、草戸稲荷神社前には遊女町を造ったといわれる。

寛文元年(1661年)に病に伏し、翌年(1662年)に江戸藩邸において38歳で死去した。

藩政においては、生え抜きの藩士を積極的に登用しているが、勝貞の死後、家老・上田玄蕃ら門閥派の巻き返しにより、勝貞に重用された猪熊三右衛門ら側近5人が殉死に追い込まれる事態となった。この御家騒動(水野家家中騒動)に家中は激しく動揺したといわれ、城下の惣堂神社が「惣堂(そうどう)→騒動」に繋がるとして延広神社に改称されたという。

系譜

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父母

正室

側室

  • 野瀬氏

子女

  • 水野勝種(長男)生母は野瀬氏(側室)
  • 鶴(長女) ー 勧修寺経敬室、生母は正室
  • 与曽(次女)生母は野瀬氏(側室)

外部リンク

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