水谷覚夢
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 延享4年10月19日(1747年11月21日) |
死没 | 文政13年9月25日(1830年11月10日) |
改名 | 水谷光和、元久[1] |
別名 | 幼名:友之丞、通称:友之右衛門、画号:玉泉[1] |
戒名 | 因寿院清嵓覚夢居士[1] |
墓所 | 矢場町政秀寺 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 藤原姓水谷氏 |
父母 | 水谷光長 |
兄弟 | 政 |
子 | 水谷豊文、本多武助妻、兼松正盛、水谷安則、安藤知義 |
水谷 覚夢(みずたに かくむ)は江戸時代後期の尾張藩士、本草学者。嘗百社盟主水谷豊文の父。
概要
[編集]延享4年(1747年)10月19日、尾張藩士水谷光長の子として生まれた[1]。享和2年(1802年)3月4日隠居し、長男水谷豊文に家督を譲った[1]。
松平君山に本草学を学び、虎薬師僧某、總見寺塔頭陽嵓院和尚某、柳薬師僧某等を同学とし[1]、毎月17日に集って本草会を開いたという[2]。なお、明治に史料の読み違えから覚夢自身が柳薬師僧との誤伝が生じた[1]。
また、神波挺庵・全庵「尚左随筆」には鶴翁として載るが、覚夢翁の誤伝か、別号か不明[1]。
また、画業も修め、玉泉と号したという[1]。
文政13年(1830年)9月25日病没し、春日町泰昌寺に葬られ、廃寺後矢場町政秀寺に改葬された[1]。
親族
[編集]水谷家は本姓藤原氏、本国は伊勢国で、水谷刑部少輔光房、右京進光久、郡太夫規久を経て、忠右衛門光平の代から尾張藩に仕え、覚夢で3代目という[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 磯野直秀、田中誠「尾張の嘗百社とその周辺」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第47巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2010年、15-39頁、CRID 1050845762334986240。
- 吉川芳秋『水谷豊文先生の伝』中京植物学会、1927年。