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水章県(すいしょう-けん)は、紀元1世紀の初めから紀元23年まで、中国の新の時代(8年 - 23年)にあった県である。現在の陝西省西安市に位置した。
前漢の覇陵県を改称して発足した[1]。年は不明で、次に述べる郡改編との前後関係も不明である。
はじめ京兆尹に属したが、天鳳元年(17年)4月の制度改革で京兆尹が廃されると、新設の光尉郡の下に入った[2]。
新の滅亡により、もとの覇陵県に戻った。
- ^ 『漢書』地理志第8下。ちくま学芸文庫『漢書』3、277頁。
- ^ 『漢書』王莽伝第69中、天鳳2年4月条。ちくま学芸文庫『漢書』391 - 392頁。『三輔黄図』巻之一、三輔治所。陳直『三輔黄図校証』5頁。何清谷『三輔黄図校釈』13頁。覇陵県が光尉郡に属したことは『三輔黄図』にある。また、『三輔黄図』は光尉ではなく光禄と書くが、陳直(5頁)、何清谷(17頁注17)とも、『漢書』顔師古注に従い光尉と改める。
- 班固『漢書』。小竹武夫訳注『漢書』1 - 8、筑摩書店(ちくま学芸文庫)、1998年。
- 作者不明『三輔黄図』。陳直『三輔黄図校証』、陝西出版社、1980年。何清谷『三輔黄図校釈』、中華書局、2005年。
- 中央研究院「漢籍全文資料庫」、2017年6月閲覧。