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水之江文二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水之江文二郎
みずのえ ぶんじろう
生年月日 1860年11月29日
出生地 日本の旗 日本 豊前国宇佐郡
(現大分県宇佐市)
没年月日 (1929-02-11) 1929年2月11日(68歳没)
出身校 旧東京大学医学部中退
(現東京大学医学部)
所属政党 (立憲政友会→)
政友本党
配偶者 水之江里宇
親族 養父・水之江浩(貴族院議員)

選挙区 大分県郡部選挙区
当選回数 2回
在任期間 1902年8月10日 - 1903年12月11日

大分県の旗 第11代 大分県会議長
在任期間 1899年9月25日 - 1902年11月8日

宇佐郡会議長

大分県の旗 大分県会議員

宇佐郡会議員

その他の職歴
封戸村長
( - )
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水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日[1])- 1929年昭和4年)2月11日[2])は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家政治家衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰[3]

経歴

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豊前国宇佐郡、のちの大分県[2]宇佐郡和間村[4]鶴田新田[3]長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門[3])の二男として生まれる[1][5]。漢学、詩学、歌道を修める[1][2][3][4][6]。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び[1][2][4][6]、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学した[1][2][3][4][6]が病のため退学し[3][6]、書法を研究した後に帰郷した[1][6]

1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄[3]水之江浩の養嗣子となった[1][3][6]。1889年(明治22年)封戸村長に就任し3期在任した[2][3]。その他、町村組合会議員、宇佐郡会議員、大分県会議員を務め[1][2][3][4][6]、1899年(明治32年)郡会議長、県会議長に選出された[2][3][4][6]

1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(大分県郡部、立憲政友会)で初当選し[1][3][7]、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙(大分県郡部、政友会)でも再選され[7]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3][4]。政友会県支部の結成に参画し支部長を務め[3]、その後、政友本党が結成されるとその支部長となった[3]

実業界では、日豊線鉄道期成会幹事、大分県農工銀行取締役、両豊銀行取締役、両豊貯蓄銀行取締役、大分電気工業取締役、九州工業取締役、九州調革取締役などを務めた[2][3][5]

その他、学校建築などの公共事業に多額の寄付を行った[3]

親族

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  • 妻 水之江里宇(養父長女)[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 初版』1029頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』624頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『大分県歴史人物事典』479-480頁。
  4. ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』438頁。
  5. ^ a b c 『人事興信録 第8版』ミ54-55頁。
  6. ^ a b c d e f g h 『新選代議士列伝』320頁。
  7. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』35頁。

参考文献

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  • 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
  • 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。