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水上助三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

水上 助三郎(みずかみ すけさぶろう、1864年4月4日元治元年2月28日[1][2]) - 1922年大正11年)7月30日[1])は、日本の漁業家。

経歴

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陸前国気仙郡吉浜村(のち岩手県気仙郡吉浜村→三陸村→三陸町、現・大船渡市)千歳(せんざい)で半農半漁の家の水上助十郎の長男に生まれる[2][3]1881年明治14年)父の金を持ち逃げして、上京、東京では煎餅屋に奉公した後、養鶏業を始めた[2][4]。翌年、父に呼び戻され、帰郷。佐々木ソデと結婚する。吉浜で漁業を手伝いながら、機を見て5年後に再び上京、小笠原諸島父島に渡り、製塩法を学んだが[2]、島内でを見て、牛の飼育を思いつき、牛2頭を父島から吉浜に連れて牛の飼育を始めたが長続きしなかった[5][6]1890年(明治23年)海藻からヨードを採取する技術を学ぼうと千葉県へ向かった。その技術を取得後、吉浜で事業を始めたが、これも長続きせず[5]、事業を弟に任せた[7]。今度は鯨取りを始めたが、失敗に終わった[5]。さらに宮古の津軽石川でサケ漁を始めたが、これも不漁で失敗に終わった[1][5][8]1895年(明治28年)借船「権現丸」で三陸沖のオットセイ猟を始め、初年度は9頭に終わった[5]。翌年は120頭の捕獲数となり、1898年(明治31年)「千歳丸」で千島列島方面へ進出し、500頭弱の成果を得た。「第二千歳丸」建造後の1905年(明治38年)にはベーリング海で4200頭も捕獲し[9][10]、水上は「オットセイ王」と呼ばれた。この間、占守島郡司成忠に会い、現地でサケマス漁を行い、その後、樺太でもサケ・マス漁を始めた[1]

その後は塩竈でウナギの養殖を始めたが、暴風雨と高波で堤防が決壊、ウナギが海に逃げ出してしまった。しかし、決壊した堤防にカキが付着したのを見てカキの養殖を思いつき、試行錯誤の末、垂下式の養殖法を考案、松島湾で広め、カキの産地となった[1][11]。また、吉浜湾でアワビの養殖も始めた[12]。獲る漁業から「耕す漁業」の先鞭をつけた[1]

1912年(明治45年)にオットセイ猟が禁止となり、関係者救済のため、メキシコでの漁業を計画[13]1913年(大正2年)「第二千歳丸」に三十数名の乗組員を乗せ、日本を出港後、メキシコの海岸に船を浅瀬に座礁させ、乗組員を上陸させる計画を立た。この計画は成功し、乗組員はメキシコに上陸できた[14]。メキシコでのマグロカツオ漁は成功を収めた。

1917年(大正6年)に小壁、大建などの建網漁場を経営し、ワカメの加工にも着手した。三陸漁業の振興に大きな足跡を残した。また、「漁でもうけたら木を植えろ、不漁の年は山が助けてくれる」と語り、三陸沿岸の漁家が山林経営を始めた。ほか、地元吉浜の国有林を払い下げ、村民に開放した。1922年(大正11年)東北大学附属病院で死去。死去の前に緑綬褒章を受章した。

親族

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脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f 『岩手人名辞典』223頁。
  2. ^ a b c d 『明治仙台人物誌』121頁。
  3. ^ 『岩手の先人』第二集、80頁。
  4. ^ 『岩手の先人』第二集、81頁。
  5. ^ a b c d e 『明治仙台人物誌』122頁。
  6. ^ 『岩手の先人』第二集、82頁。
  7. ^ 『岩手の先人』第二集、81頁。
  8. ^ 『岩手の先人』第二集、84頁。
  9. ^ 『明治仙台人物誌』123頁。
  10. ^ 『岩手の先人』第二集、90頁。
  11. ^ 『明治仙台人物誌』124頁。
  12. ^ 『岩手の先人』第二集、91-92頁。
  13. ^ 『岩手の先人』第二集、992頁。
  14. ^ 『岩手の先人』第二集、94頁。

参考文献

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  • 日本教育会岩手県支部調査研究会編『岩手の先人』第二集、日本教育会岩手県支部、1999年。
  • 逸見英夫著 宮城地域史学文庫第4集『明治仙台人物誌』耕風社、1993年。
  • 『岩手人名辞典』(財)新渡戸基金、2009年。