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氏家直昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
氏家 直昌
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正11年(1583年
別名 直重、直通、経国、行広、左京亮
主君 斎藤龍興織田信長
氏族 氏家氏
父母 父:氏家直元(卜全)
兄弟 直昌行広行継
重近
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氏家 直昌(うじいえ なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将氏家氏13代当主。

生涯

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氏家氏は宇都宮氏の庶流。直昌は西美濃三人衆の一人・氏家直元(卜全、大垣城城主)の子として生まれる[1]

始め美濃斎藤氏に仕えるが、織田信長に降る[1]

元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻めで、父が戦死したため、家督を継いだ[1]

信長に従って各地を転戦し、天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いではかつての旧主・斎藤龍興を討ち取るという武功を挙げた[1]

天正7年(1579年)、荒木村重稲葉貞通を攻撃した際、堀川国満と共に撃退した[1]。その後も石山合戦荒木村重討伐などに参加して武功を挙げている。

天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で横死した後は羽柴秀吉と誼を通じる。天正11年(1583年)4月20日、秀吉が出陣後も堀尾吉晴大垣城に残り直昌を説得して、一緒に秀吉のあとを追い賤ヶ岳に出陣したとされる(『甫庵太閤記』)[2]。秀吉本陣の背後の安全を請け負った吉晴の役割は重大であり、直通を賤ヶ岳出陣に踏み切らせた功績は甚大であった[2]。吉晴と直昌のやりとりは『譜牒餘録』にも見えていることからほぼ事実といえる[2]

天正11年(1583年)に死去。跡を弟の行広が継いだ。

参考文献

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  • 阿部猛西村圭子編『戦国人名事典』(新人物往来社、1987年)
  • 宮本義己「智と武を競った闘将 賤ヶ岳の群像」(『歴史群像シリーズ』15号、1989年)

脚注

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  1. ^ a b c d e 阿部猛西村圭子編『戦国人名事典』(新人物往来社)142頁
  2. ^ a b c 宮本 1989.